我が家の昭和40年代 | 気ままな暮らしDAISUKI!

我が家の昭和40年代

今朝、日本テレビでは「昭和」をテーマに特別バージョンで番組を展開しています。そこで我が家と東京の昭和40年代をちょっと振り返ってみます。

当時は携帯電話、パソコン、通信カラオケ、デジカメなんかありません。うちでは有線の電話でさえ昭和45年までありませんでした(貧乏なので新聞もとっていなかった)。黒のダイヤルを回す電話機でしたね。カラオケは「歌のない歌謡曲」と呼ばれ、クラリオンの「カラオケエイトナンバーワン」ができるのはしばらく後です。カメラはオートフォーカスさえなく、フィルムをいちいち巻いてピントを合わせていました。コンパクトビデオカメラなんか普及しておらず、「フジカシングルエイト 」が精一杯でした(もちろんうちにはない)。

ゴミの分別や禁煙エリアもありませんでした。ゴミは捨て放題、タバコは吸い放題です。会社に入る際のセキュリティーも甘く、電車の改札は人がやっていました。電車やバスには冷房などなく、夏のラッシュ時はまさに蒸し風呂状態でした。個人情報の管理も甘く、雑誌や新聞には住所氏名がはっきり書かれていました。

テレビは白黒からカラーへ、真空管からトランジスター への過渡期で、音声多重・リモコン・デジタルなどずっと後の話です。テレビをつけると画面が出るまでしばらくかかり、明るさを調整したりチャンネルを回したりしたものです。そもそも番組が休みの時間帯があり、不具合で「しばらくお待ちください」がたびたび出たものです。大晦日にはレコード大賞と紅白歌合戦を毎年必ず見ていました。

洗濯はたらいと洗濯板でしていました。冬は水が冷たくて大変でした。ようやく洗濯機を買っても脱水はレバーを回してローラーの間から洗濯物が出てくる方式でした。全自動などはるか後の話です。冷蔵庫は冷凍庫もなく、製氷機には霜がついて大変でした。ガス湯沸かし器を買ったのは昭和47年で、それまでは水で洗い物をしていました。

クーラーもずっとありませんでした。夏は大正製薬の「ワイパーエースゾル」を撒いて蚊取線香をつけ、うちわであおいでいました。昭和50年にクーラーを買ったのですがとても高く、電気を食うのでヒューズがよく切れました。温度調節は切・弱・中・強のみ。すごい音と匂いがしました。

電子レンジや電子ジャーを買ったのもはるか後です。年中おこげと冷や飯を食べていました。なので拙者はおこげが好きではありません。味噌は乾物屋で量り売りをしているのを買っていました。醤油はガラスの一升瓶で売られていて、ペットボトルなどありませんでした。

デパートにはエレベーターガールがいて、手で扉を開け閉めしていました。上野松坂屋 の入口には手足のない元軍人さんが座っていました。隣ではアコーディオンを弾いている人がいました。

ラジカセを買ったのは昭和48年です。その前はオープンリールでしたね(うちにはない)。CD、MD、ビデオ、DVDなど想像もできませんでした。

野球はV9巨人の全盛期 。まだ後楽園球場があり、必ず優勝するものだと思っていました。いま東京ドームがある場所はプールで、その前は競輪場でした。ピッチャーは連日登板。中四日だと贅沢だったと思います。大相撲は大鵬から輪島・貴ノ花、北の湖の時代となり、蔵前国技館には何度か出かけました。

最後に、うちはよく一家でパチンコ店に行きました。拙者は玉を拾っては打っていました。昔は穴から一個ずつ玉を入れてボックスに入ると10個出る方式、続いて玉がチューリップに入ると15個が上皿に出てそのまま打てる方式。いずれも手打ちで、自動になったのはずっと後の話です。拙者はパチンコ屋で古い大人の歌謡曲・演歌を覚えたと言っても過言ではありません。


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