その日は朝から雨
駅前でひたすらお客様を待つ
前回の乗務から2時間近く過ぎただろうか
今日の営業は悲惨だろうなと
心が折れそうになった
(コンコン♪)
後ろから窓を叩く音がして振り向くと
ドアの前におばあさんが立っていた
慌ててドアを開ける
大きなスライドドアが全開になるとそこには
編んで作ったのか?
ニットのかわいらしい帽子を目深にかぶり
顔の半分を覆うような大きいマスク
いやマスクが大きいのではなく
おばあさんはかなり小柄だからだ
そのわずかな間から確認出来る目は可愛らしく
それでいて充分に温かく優しい眼差しだ
「気づかず申し訳ありません。どうぞどうぞ。」
私の言葉におばあさんは乗り込み
シートに腰掛けると
「近くてごめんなさい。市民センターまで。」
目しか見えないが
おばあさんは明らかに申し訳なさそうに
小さく呟いた
「ごめんなさいなんておっしゃらないでください。御利用いただけるのがありがたいですよ。」
私は少し焦りながら言った後
「御利用ありがとうございます。市民センターですね。」
私の言葉におばあさんは目にいっぱいの笑みを
浮かべて頷く
私は無線機を手にすると
「○○号車駅御乗車で市民センター」
本社から間一髪入れないくらいのタイミングで
「了解」
タクシーは駅前ロータリーを出て
市民センターへと向かう
雨が容赦なく窓の視界を遮る
規則正しく音を発てながら
ワイパーが雨を拭い一瞬視界が開ける
その音の繰り返しと
地面に溜まる雨水を跳ねるタイヤの音が
車内に響いてくる
おばあさんは黙って左側の窓から
流れ過ぎる風景を見つめていた
渡ろうとした踏切が激しく警報音を鳴らし
閉まる遮断機の前に停まる
静かな車内に今度は警報音が響いてくる
おばあさんは変わらず外を見つめていた
「今日は朝から降ったり止んだり湧いたりですね。」
私は何気なくおばあさんに話しかけた
その言葉におばあさんは私のほうへ振り向き
先ほどより少し広く目を開きながら
「雨が湧いてきたの?それは面白いわね。」
おばあさんは直ぐに理解して
目はあきらかに笑っていた
冗談交えてかけた言葉
もしかしたら
おばあさんが白けてしまうのでは?と
ドキドキの私だったが
安心してその笑顔に私も精一杯の笑顔を返す
「運転手さん、あなた面白いわね。」
おばあさんはそう話すと
それをきっかけにいろいろなお話をしてくれた
久しぶりに訪れた街風景が変化していた事
この街で若い頃夫婦で生活して
その生活が一生懸命だったあまり
気づかぬくらい時は長く過ぎていた
やがて夫は老いてその看病となり
夫が別れを告げてからしばらくして
今度は自分が体を弱らせてしまい
息子夫婦に説得され
思い出深いこの街を離れた
それから少し元気になった頃
この街の市民センターで大好きな演芸開催を知り
おばあさんは久しぶりに
この馴染み深い街に来たのだと
市民センターまでは短い距離の中で
おばあさんはいろいろ教えてくれた
人生を深く経験した方だからこそ
明るくお話するその一つ一つの言葉が
強く印象に残るのを感じた
やがてタクシーは目的地に到着した
「御乗車ありがとうございます。」
私はメーターを止めて料金を告げると
おばあさんはバックから
使い込んだ小さな財布を取り出し
その中から1枚の千円札を出して
私に渡してくれた
その千円札を見た私は思わず見つめてしまう
千円札はかなり使い込まれたように
しわくちゃでよれよれ
「今日の為に少ない年金からちょっとづつ貯めたの。本当は歩いてここへ来るつもりだったけどこの雨だし、今日くらい贅沢しても良いかな。と思って。」
おばあさんわかるよ
大好きな事の為に他を我慢して貯めたお金
この千円札のしわは
おばあさんの努力で刻まれたんだね
「お客さん…」
私は一度言葉を区切り
溢れてきそうな気持ちを必死に抑えながら
「今日はいっぱい楽しんで欲しいから、料金は初乗り運賃で良いよ。」
するとおばあさんは
「ダメだよ。」
おばあさんはにっこりしながら
「気持ちはありがたいけど、私はあなたにちゃんと支払いして降りたい。それに、ここまでの間だけど、あなたとお話して楽しかったわよ。その気持ちも含めてちゃんと払わせてね。」
おばあさんの気持ちを聞いたら申し訳なくて
「ありがとうございますお客様。」
私は正規料金を受けとる
外は変わらず雨だった
ドアを開くと
「ありがとうね。楽しんでくるわよ。」
「御乗車ありがとうございます。足下お気をつけて。いってらっしゃい。」
おばあさんはバイバイすると
精一杯早く歩いて建物の入口へ向かった
ちゃんと入口入るまで見ていたかったけど
この雨で後ろは車の行列
私は慌ててその場を走り去る
(おばあさん、たくさん楽しんでね。)
しわだらけの千円札は
別のバックにしまいこみ
後で仕事終わる前にもう一度見て
おばあさんに負けないくらい
仕事頑張ろうと自分に喝!を入れた