昨日は
「目黒学園カルチャースクール」の日✨
関裕二先生の講座を受講してまいりました♬
『聖徳太子は蘇我入鹿である』
〜第1回 蘇我入鹿は大悪人である?〜
神社に伝わるところによれば、乙巳の変で蘇我入鹿公が飛鳥板蓋宮で中大兄皇子や中臣鎌足らに倒された頃、小網町は隣町の曽我町(宗我坐宗我都比古神社がある)の領地だったので、蘇我入鹿公はこの入鹿神社あたりで幼少期を過ごしたとか、入鹿公の母が身を寄せた家があったなどと伝えられています。
また蘇我入鹿公が首をはねられたので、昔は小網では鶏を飼わなかったとか、小網で生まれたものは蘇我入鹿公を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峯へ参ると腹痛が起るとか、明日香村小原は中臣鎌足の母の出生地ということで、小網町と小原は縁組みしない等、いまだに続く風習もあるそうです。
写真は自前です
写真の「蘇我入鹿公御舊跡」と書かれた石の標識ですが、第二次世界大戦中に、蘇我入鹿公の旧跡としての確かな史実の裏付けがないということ、また“いたずらに人心を惑わす”とされ、強制的に撤去されました。しかし戦後は集落の人々により元に戻されています。
石の標識には、蘇我入鹿「公」と尊称までしっかり刻まれています。果たして逆臣をそのように称するでしょうか。。。
社名についてですが、明治時代に橿原神宮造営にあたり、皇国史観に基づいて神武天皇を祀る橿原神宮の近くに、逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、ご祭神を素盞嗚尊に・社名を地名からとった小網神社に改めるように政府から言われましたが、地元住民はそれを拒んだといいます。
日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっている今に至るまで、地元の人々から崇敬を集めています。
🍀ゆだぽん公式LINE 鑑定はこちらから
※リピーター様は15分2500円〜受付いたします
人気ブログランキング