織田信長と占い | ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

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お寺や神社巡りで感じた事や、不思議な話・オーラについて…などなど書いています。

昨日からの流れで…今日は「織田信長と占い」についていくつかの逸話をご紹介していきたいと思います🔮

占い好きでは右に出る者がいなかったとされた武田信玄とは反対に、織田信長は占いを軽蔑していたといいます。戦国時代の日本を訪れ、織田信長や豊臣秀吉らとも面識のあったキリスト教宣教師ルイス・フロイスが書簡を残しているのですが、それによると信長は
「よき理解力と明晰な判断力を備え、神仏やあらゆる類の偶像、一切の異教的占いを軽蔑している」とあります。

うーん、昨日の記事にも書きましたが、織田信長は神職の家系で桶狭間の戦いの前には熱田神宮で戦勝祈願を行っていますので、神仏まで軽蔑していたかは微妙ですね。




むしろ信長は得体が知れないもの、不思議なものにものすごく興味を持っていて、それが本当かどうかを検証することに熱心だったといいます。


この熱田神宮の戦勝祈願の時に織田信長は
「本日の戦いの吉凶を占おう!今一文銭を投げさせる。表が多く出れば勝利ぞ!」

織田信長はそう言って小姓に、用意した一文銭を10枚投げさせました。
すると10枚とも全部表がでました。

一同はどっと喜び
「本日の勝利うたがいなし‼︎」
と鯨波(とき)の声をあげて出陣しました。

しかし実は…
あらかじめ一文銭の裏をヤスリで削り、裏同士を貼り合わせ、表しかでないようにしてありました。

この時、やはりあらかじめ準備された2羽の白鷺が同時に飛び立ち、それを見た織田信長が
「これは吉兆じゃ!この戦いは神が勝利を約束したのだ!」
と言ったと伝わります。

この話は検証云々よりも一歩上にいっていますね。




戦国時代は統計学と呼ばれる占いがすでに存在していました。信長はそれすら「根拠なし」と言って証明しようとしたことがあるらしいのです。


書写年不明の「朝野雑載ちょうやざっさいという書物にこんなエピソードが記されています。


信長が国内を攻略し名将となっていた頃、故郷の清洲に里帰りしました。そして

「自分と同年同月同日同時に生まれしものを尋ね出し給う」というお触れを出しました。


当時は占いは

生年月日が同じだと同じような運命をたどる

ということが基本だったようで、本当に同じであるか検証しようとしたと思われます。


そうしたところ1人の貧乏な禅僧が見つかりました。

その時点で信長は

「やはり占いなど信用できぬ」となったことが想像できます。

が、その禅僧はこう言いました。

「信長様と私には差はございません。大将軍のあなた様と貧しい私、明日どうなるか分からないのは同じなのです。信長様だとていつ極貧になるかもしれませぬし、明日私に幸運がやってくるかもしれませぬ。ですからあなた様と私の違いは今日の一日だけなのです。」


これを聞いた信長はとても感心し、禅僧に褒美をとらせました。


その後、その禅僧の言葉通り本能寺の変で信長は暗殺されてしまいました。

禅僧は信長からいただいたご褒美で、余生を幸せに過ごしたということです。


さらに「本能寺の変」を暗示させる逸話もあります。


信長の家臣であった太田牛一が記した「信長公記」には「客星」という記述がみられるのですが、この客星というのは“ほうき星”つまり彗星のことで
普段の空では見かけない他所から来た不審な星
という意味で表現されています。




この大彗星が出現した1577年の信長は
石山本願寺・上杉謙信
家臣である松永久秀の裏切り
が同時に起こるという苦しい状況の真っ只中でした。

「信長記」によれば
九月廿九日戌刻西に当而希有之客星出来候也
(天正5年旧暦9月29日夜8時頃、西の空にきわめて珍しい見知らぬ星が現れた)
と記されています。
※信長記は信長公記とは別の書物です

この大彗星が出現した翌日に、信長軍は松永久秀の攻略を始め、片岡城に攻め込んでいます。

松永久秀は、越後の上杉謙信が上洛戦を開始することを知り、信長の命運も尽きるだろう…と考え反旗を翻すのですが、上杉謙信は加賀・手取川の戦いで織田軍を撃破後、なぜかそこで引き返してしまい、なんと翌年の3月に急死してしまいました。

松永久秀の読みは外れ
上洛戦は実行されずに終わります。

その後、10月3日に信長軍は信貴山城を攻め落とし、久秀は切腹。

信貴山頂からも彗星はよく見えていたといいます。
久秀の家臣が
「京の卑しい者たちがあの星を弾正星と呼び、天が殿(久秀)の滅亡を告げていると申していましたが、それが当たってしまいました」
※久秀の官途名は弾正少弼

すると久秀は彗星にチラリと目をやると大笑いしてこう言ったそうです。
「彗星が現れるのは天文自然の理に従っているからに過ぎない。自分も信長も自然の摂理には何の関係もない。死のうと生きようと彗星の運行には何の影響もあるものか」

久秀が切腹したのは10月10日。
久秀はちょうど10年前の同じ日の10月10日に東大寺の大仏殿を焼き討ちにしており、これは因果応報で客星(彗星)が現れたのも春日大社の思し召しである
と信長公記に書かれています。 

※裏切りを繰り返すなど、悪人イメージの強い松永久秀ですが、最近の研究によりそれは後世の創作や誇張とされ、実際には忠義の人だったと評価する見方も出ているそうです。

一方の信長はといいますと、彼は彗星を穢れとして考え、自分の御殿より低い丹羽長秀の家に逃げ込んで彗星を避け、久秀討伐は息子の信忠に任せています。
信長が安土を出て京に向かうのは11月になってからだったとか。

この戦いでは
彗星が信長に幸運をもたらした
とも言えますね。

ですがこの5年後の天正10年3月8日。
日本の上空が赤い光に包まれました。その光は安土城天守の真上を不気味に赤く染め、それは朝方まで続いたといいます。
この赤い光は「赤気(オーロラ)」とみられ、珍しい現象ですが日本では推古天皇の時代(620)に現れています。


翌月の5月13日には彗星が出現。長い尾を引きながら、数日間にわたり夜空を流れました。
さらに5月19日、彗星とも花火とも思える正体不明のものが、空から安土に落下したそうです。

その数十日後の6月2日「本能寺の変」が起こり、織田信長は明智光秀の謀反により、夢半ばで倒れることになるのです。。。









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