古代史日和勉強会〜倭の祖先は太伯⁉︎〜 | ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

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一昨日は古代史日和勉強会でしたラブラブ


講師は邪馬台国の会の理事、末永先生キラキラ
テーマは『朝鮮半島の前方後円墳について』

中国や朝鮮の古代史情勢は非常に苦手なのですが、久しぶりの末永先生のご講義はとても分かりやすく、百済や新羅・高句麗などの関係性も頭に入りやすかったです!

そして前方後円墳が朝鮮半島にもあったとは驚きでした。日本と密接な関わりがあったことが伺えます。これを記事にしますと、またまた非常にマニアックになってしまいますので、これとは別に資料の中で気になったことをご紹介いたします。


〜呉の太伯は倭の祖先⁉︎〜

魏志倭人伝によれば
「倭は断髪文身し、会稽かいけい(郡)東冶とうや(県)の東にある」
と書いてあります。会稽は春秋戦国時代の越の都市であり、越の風俗に似ているとしています。
あ、倭というのは日本のことです。

中国の王朝は
「夏→商(殷)→周」
と続きますが、呉はこの周の文王の伯父で太王の子の『太伯(泰伯)』と仲雍(太伯の弟)が建国したといいます。

周の国は「姫」姓であり、したがって呉も姫姓でした。
日本書紀の平安時代の講義筆記ノートである「日本書紀私記」には
中国からの太伯伝説に基づき、倭(日本)は姫氏国と呼ばれていた
ということが分かります。

といってもそもそも太伯って誰?

という話ですよね〜かくいう私も勉強会までは知らなかった人物です(・・;)


呉太伯はBC1000年頃の伝説上の人物と言われていて、司馬遷の『史記』に記録されているのだとか。



父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子がいて長男が太伯(泰伯)・次男が虞仲(ろちゅう)・三男が季歴(きれき)。この末子の季歴は英明と評判が高くて、さらに季歴の子の昌(しょう)は聖なる人相をしており、後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていたそうで、太伯・虞仲は季歴に後継を譲って南蛮の地である呉に流れて行きました。


ふむふむ♪


呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたといいます。後に季歴は兄の太伯と虞仲を呼び戻そうとしましたが、2人はそれを拒み断髪し全身に分身(刺青)を施しました。当時は刺青は蛮族の証。それを自ら行うことで文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったと思われます。


その後に呉は滅びるのですが、中国の史書によれば

「周の元王3年、越は呉を亡し、その庶(親族)ともに海に入りて倭となる」

と記されています。

呉の最後の王であった夫差の子の「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島に来たと伝わります。

「孝昭3年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」

と記されていることから、九州だということが分かります。


なるほど!そういう経緯があったのですね。


それを証明するように

宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承があり

鹿児島神宮には全国の神社で唯一、太伯が祭られているそうです。


へ〜シラナカッタ!

でも日本人の祖が中国の呉からやってきたって、なんか複雑で微妙。。。

そういう説があることは面白いけど

日本人は日本人であって欲しいな

と思ったのでありました☆





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