今日は伊勢神宮外宮に、天照大御神の御饌の神としてお祀りされている「豊受大神」の興味深い伝承をご紹介します
外宮の鎮座の由来は記紀(古事記・日本書紀)には記載がなく、延暦23年(804)に編纂された社伝の「止由気宮儀式帳」によりますと
雄略天皇の夢に、伊勢神宮内宮のご祭神である天照大御神が現れて
「私は1人なので、毎日の食事に不自由している。丹波国の御饌の神である等由気大神(とようけのおおかみ)をすぐに近くに呼び寄せるように」
と神託されました。
これを聞いた雄略天皇は、慌てて伊勢の山田原に神殿を建て、丹波の比治の真名井から等由気大神をお迎えし祀りました。
これが伊勢の外宮「豊受大神宮」の始まりとされています。
「丹後国風土記」には豊受大神について次のような伝承が記されています☆
原文を私が訳しましたので、もしおかしな表現がございましたらすみませんm(._.)m
丹後の比治の山(磯砂山いさなごさん)の頂上に池があり、その名を“真名井”といいます。
この池に天女が8人舞い降りて水浴びをしていました。
そこに里人の和奈佐という老夫婦がやってきて、1人の天女の衣をこっそり隠してしまいました。
衣のある天女たちはみんな天に飛んで行きましたが、衣を隠されてしまった天女は、体を水に隠していました。
すると老夫婦は
「私たちには子どもがいない。どうか私たちの子どもになってはくれまいか」
と頼みました。
天女は
「私1人だけ下界に取り残されてしまいました。この上は従うしかありません」
それから10年あまり、老夫婦と天女は一緒に暮らしました。万病に効くという酒を天女が作り、和奈佐の家はとても豊かになりました。
ところがある日のこと、突然老夫婦は
「お前は私たちの子ではない。早く出て行きなさい」
と天女に向かって言ったのです。
天女は天を仰いで嘆き、地にうつ伏せて哀しみました。
「自分から望んであなたたちの子になったのではない。そちらが望んだからです。今になってなぜそんなひどいことを言うのですか」
と言いましたが、老夫婦はますます怒って出て行けと言います。
天女は涙を流しながら家を出て、里人に
「私はかなりの間、人間の住む下界にいたので、今さら天に還るすべもありません。親しい人もいないのでこれからどうしたらいいのでしょう」
と嘆き
天の原 ふりさけみれば霞立ち
家路まどひて 行方知らずも
と歌いました。
それから泣く泣く荒塩の村にたどり着き
「老夫婦の心を思うと、私の心は荒塩のようです」
と言いました。
そして丹波の里の哭木(なきき)の村に至っては、槻の木に寄りかかって哭きました。
さらに竹野の郡、船木の里の奈具の村で
「ここに来てようやく私の心は落ち着きました」
と言って、この村に留まりました。
この天女とは
竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命
のことです。
なんだ、この老夫婦は
ひどい話ですよね
ですがそのおかげで豊受大神が誕生し、伊勢神宮外宮にお祀りすることが叶ったと思えば、結果的には良かったといえるのでしょうか
天女の羽衣伝説は全国各地にありますが、たいていは衣を隠した男性と結婚したりしますよね♡
↓こんな感じ?
この伝承を読んだ時に、なぜか「かぐや姫」の物語が頭に浮かんだのですよ
似てるといえば少し似てるのかな⁇
何か関係があるように感じましたが。。。
それはさておき
講師の志村先生が
記紀では分からない話が、地方の風土記などその他の文献に見られることが多いので、数多く読んでみると新しい発見があって面白いですよ♪
とおっしゃっていましたが本当ですね!
これからは私も幅を広げて古代史を学んで行きたいと思いました
次回は私もこれにしようっと
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