教育を受けて丸みを帯びていきます。

こんばんは、健全さんです。
テレビという媒体から発信される情報に対して異常に警戒してしまうので、熊本の震災は実は起こっていないのではないかと考え始めました。
冗談です。




さて、今日は学生として、「教育」云々に対する自分の自意識を綴ります。熊本の震災の話は一切出てきません。

最近、ある国語教師の授業を受けました。
今年度から自分の通う高校に入ってきて、僕のクラスの副担任を務めるそんな彼女の授業を。


端的に述べてしまいしょう。
過去最悪につまらない授業。


評論文の読み取りをするというありがちな授業。そこまでは我慢できます。慣れていますから。
ただ、問題はそこから。
彼女の授業は、彼女の先導に従って答えの道を歩くだけのもの。







「○○の部分がどういうことか、各自思ったことをまとめてみましょう。」
その後生徒からそれを聞いて黒板に書き記すわけでもないのによく言うよ。



「○○は△△ということですね。」
おい、その△△いつ登場したんだよ。神視点でいきなり答えを導くなよ。



「あっ…えぇと…。」
生徒が間違った事を言った際に動揺を漏らすのをやめろよ。生徒らの不安感を煽るのに事足りるぞ。




「○○さんの言ったことはつまり、こういうことですね。」
いつそんなこと言ったんだよ○○さん。捻じ曲げて答えにつなげるなよ。








こんな感じに生徒を殺す授業を展開するわけで。
どうも、黒板の内容をその教師の手元にある、事前に教師がまとめたノートの内容に否が応でもしたいようです。
先生の高尚なお答えをただノートに写し撮るだけの単純作業。
僕は綺麗な字で書くことしか考えてません。無論内容なんてほとんど覚えていません。
内容なんて覚えずとも、ノートにはいつも完璧な正解がありますから。



僕は“「教育」とは何か"に対する明確な答えを持ち得ていません。
ただ、少なくとも「正解を出させること」では無いことぐらいは分かります。
また、それは「間違った答えを否定すること」でもありません。




ここからは僕の持論ですが、
「教育」は個性を削るものです。



小学生や中学生、高校生は皆光り輝く個性を持ち合わせています。
それは、正しい答えを出すことよりも、もっと人間として大切なことだと思います。
ただし、それでは大人になり、社会に出たときに死にます。本当に、死にます。

そこで学校という社会が「教育」を介して、社会に出た時に死なないようにするのです。


個性は“角ばったパーツ”


大人というレールに乗った時にそれが痞えて進めなくなります。無論球体であればうまく転がって円滑な人生を送ることができます。


“正解”という道具を使って、“間違い”という個性を削る「教育」は学生にとって必要不可欠であって、義務であることも重々承知です。


ただ、皆がレールの上を円滑に転がるだけの社会が、果たして“球体の皆”にとっての何かしらの徳に成り得るのか不明です。


むしろ球体という都合良く動き扱いやすい形にしてしまおうという魂胆かもしれません。
それってかなり悔しくないですか。
 
角ばったパーツがレールを広げて、他の幾らかの球体を円滑に転がす時だってあるはず。






「教育」に削られすぎて、個性を失った球体に成り下がりたくはないと思いながらも、毎日学校に通い続けて少しずつ丸くなっていく僕なのでした。
ちゃんちゃん。