たった5個のパンが5000人に行き渡った。
前回はイエスが起こした奇跡の1つを紹介しました。
単純な僕の頭にはスッと入って、イエスの愛の大きさを実感させられた一節でしたけど、実際に起こりうる話ではありません。
民衆の多くが袋の中にパンを入れ持っていて、愛にあふれるイエスの姿に感動する余りに自分の分を他人にも分け与えた。その輪が広がると5000人もの人にパンが行き渡り、みんなが満腹となり、心も満たされたという解釈もできます。
1人目の愛の人イエス、続く弟子たち、すぐにがっついて食べることのない3人目、同じく4人目……。誰かが自分の手元でパンを止め、食べ尽くしてしまったら成立しない話です。もちろん空腹に耐えられずに食べ続けた人もいたでしょう。けれどもパンと愛の連鎖は止まらず続いたわけです。
与えられるよりも与えること。
愛は与えるもの。
今年は某宗教団体の目を見張るような高額献金が話題と問題になりました。
信じることで愛や平和な毎日を与えられ、無事に暮らせている。そこへの感謝の気持ちから無理のない金額を宗教に収める。これは美しいことだと思います。
しかし、本人以外の人から見て疑問符が付く、常識で考えても飛び抜けた額を求め、収めさせて周りにいる人をも不審や不幸せにするものを宗教と呼ぶでしょうか?
ここまで読んでいただいた方には答えは明確ですね。
親から子へ。先人から後人へ。
与えられることによって初めて、人は育まれます。
持っている、心身にゆとりある人は持っていない、心身にゆとりのない人に分け与える。格差がますます開いていく今こそ格差を縮め、1人でも多くの人が日々を普通に暮らせる社会へ持っていくことこそ、私たちが唯一生き残れる道であると僕は思っています。
奪い合えば足りない、
分け合えば余る。
できない自分への戒めと希望を込めて、再び書きます。
これからは「博愛共感主義」の時代です。
ふんわり静かに・・・。