貧困が招く、心のビンボー | ふんわりしずかに…

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時間も場所も、自分からもちょっとだけ離れて…今、ここにくつろぎましょう。

 台風の影響でしょうか。今晩の横浜は大粒の雨が降っています。

 それにしても、もしいま空から落ちてきている雨水の総量をお金に換算したら、いったいいくらになるでしょう。そんなふうに考えると、やっぱり雨は「天の恵み」ですね。

幸福とお金とアダム・スミスのお話。続けます。

 

「貧乏な人は、彼の貧困を恥じる。彼は、それが自分を人類の視野の外に置くこと、あるいは、他の人びとがいくらか彼に注意したとしても、自分が耐え忍んでいる悲惨と困苦について、彼らが、いくらかでも同胞感情をもつことは滅多にないということを知っている。彼は双方の理由で無念に思う」

 

 お金がなく、貧しい暮らしに耐える人は自分の状況を恥ずかしく思うことがあります。そこへ追い込むのは他人の目よりもむしろ、自分自身の想いです。

悲惨と困窮に耐える姿を見て、いくらかでも心配してくれる人がいるとしても、仲間であるとは絶対に思われないこともお金を持っていない人は知っているために、その悲しみはより深くなる、とアダム・スミスは言います。

 

「貧乏な人の息子は、富と地位を獲得するために、「いつでも力のおよぶ範囲にある真実の平静」を犠牲にする」

 

家にあるベストのドレスを身にまとい、最高のジュエリーを付けてパーティーに向かいました。会場についてみると参加者のレベルが思っていたよりも高く、全員が自分よりも高級な服と装飾品を身に付けています。とたんに自分の身なりがみすぼらしく、恥ずかしく思えてその場にいるのがつらくなりました。

周りの人の視線がどこか冷やかに感じられます。知り合いがさりげないひと言をかけてくれて、ホッとすることができました。しかし彼女もさっさと自分から離れ、華やかな人の輪の中へ消えていきました。

1人取り残された、小さな自分がそこにいました。

 

上のアダム・スミスの文章はもっとシンプルです。貧しい家の息子はお金と地位を何としてでも得ようと脇目もふらずひた走るあまりに今、手にできている幸せ、たとえば健康や家族愛などを感じ取ることがないまま日々を費やし、ついにはすべての幸福を失ってしまうというのです。

これ戦後の、典型的な日本人サラリーマン像ではなかったでしょうか。

 

「無視されていることと、否認されることは、まったく別のものごとなのではあるが、それでもなお、無名であることが名誉と明確な是認という日の光を遮るように、自分が少しも注意を払われていないと感じることは、必然的に人間本性の最も快適な希望をくじき、最も熱心な意欲を喪失させる」

 

 言い回しが難しいですけど(苦笑)、おわかりいただけますよね。

 他者から自分の存在を良しと認められたとき、人はイキイキと毎日を過ごせます。

そこでの「肯定」条件が外見や持ち物、つまりはお金の有無で、少ない人ほど無視される社会に生きる人はやがて生きる希望や意欲も喪失してしまうというのです。

どうでしょうか?

私たちが暮らす社会は、今から258年前にアダム・スミスが語ったことを未だ体現し続けていないでしょうか。

 

あなたは今日、どんな1日を過ごしましたか。

気分はいかがですか?

幸せな人、特別なことはなにもない人、苦しい人もいるでしょう。 

 

 お金がないから〇〇できない。

進学・恋愛・結婚・出産・引っ越し・転職……。1つの負が連鎖していっては大きくなり、身動きを取れなくしてしまうことがあります。

 持っているお金の大小が幸福に一番近い世界は、そう遠くなく終わります!

 今こそ、この一瞬に生きましょう。道は必ず開けます!

 私たちには必要な時に、必要なモノが必要な分だけ必ずそろうのです。なんとかなります、絶対に!

 好きな飲み物でも飲んで、ちょっとホッとしましょうよ?

 

 ふんわり静かに・・・。