第5章 1940年



 久しぶりの休日に、同じ部隊のジョンに誘われて市場へ出かけた。彼女にプレゼントを買うのについてきてほしいと拝み倒され、しかたなくの供だ。

「・・・いつまで立ち止まってるつもりなんだ?」

 街角で立ち止まったまま、腕時計を何度も確認してはきょろきょろそわそわと落ち着かないジョンに、いいかげんしびれを切らしかけていた。

「もう少し・・・もう少しだけ待ってくれよ」

 やれやれとため息をついたときだった。

「来た!」

 ジョンが嬉しそうに小さく叫んだ。視線の先は、通りの向こう。若い女が手を振っていた。

「・・・ごめんなさい、遅くなって」

 駆け寄ってきた彼女は息を弾ませて、瞳がきらきらと輝いている。化粧っけはないが充分に美しく、若い。

「どういうことだよ、これは」

 ジョンの脇を肘でつついて低く問う。

「どうって、彼女がおまえに会ってみたいって言うからさ」

 他人のデートに付き添う趣味はない、とにべもなく言ってやった。

「そんなこと言わずに今日だけ、な、頼むよ。この埋め合わせは絶対するから」

 ジョンはすがるように俺を見る。あきれたというか馬鹿馬鹿しいというか。いいかげん面倒くさくなってきた。

「・・・わかったよ」

 ため息をついて投げやりに言った。

「で、どこへつきあえって?」

 彼女の希望で行き先は百貨店と決まった。



 二人から少しずつ離れて、店内をぶらついた。

 皮肉なものだ。遠く離れていても思い出さずにはいられない。いや、忘れられないというべきか。

 そこは伯父が経営している百貨店だった。支店はこんなところにもあるのだ。戦争の暗い影もここにはまるで関係のない話なのだろうか。店内を見回していると幼い頃に戻ったような錯覚にふととらわれる。たまらなく懐かしかった。

「ディック」

 呼ばれて、振り向いた。

「用事は済んだのか、ジョン」

「ああ」

彼女の方は大切そうに小さな箱を抱えている。アクセサリー、いや指輪だろうか。ごくありふれた恋人たちの姿に、伯父を想って胸が痛んだ。

「・・・おごるよ。コーヒーでもどうだ?」

 俺はさりげなく先に立った。


「ねえ、ディック。好きな人いる?」

 初対面から何かと話しかけてきた彼女はストローでジュースをかき回していたずらっぽく笑った。瞳の奥がきらりと強い光を放っている。

 やれやれ、こいつも同じか。少なからずうんざりだ。

 女たちは俺のルックスが目当てか、またはそのルックスを台無しにしている左目の傷の事情に興味津々か、たいていどちらかだ。隣の恋人を気にもせず、熱いまなざしでアピールときたか。

「そんな立ち入ったこと訊くなよ」

 ジョンは彼女の脇を軽くつついてコーヒーをすする。まったく平和な奴だ。

「・・・いたよ」

 二人から目を逸らして俺はつぶやく。自然に過去形で答えていた。

「そう・・・」

 彼女はじっと俺の横顔を見つめていた。表情から何を読みとったのか、それ以上何も尋ねようとはしなかった。




                                                  (最終章 1941年につづく)






最後の別れに君に残す言葉はない

何も ただの何ひとつも

それが僕の別れだ


前世は涙も出ぬ嗚咽のうちに閉じた

君以外の恋をして


今生は笑ったまま逝ける

たとえ己で生を断ち切ろうとも

来世があるというだけで

そこに君がいるというだけで


その来世が終わるときも、また僕は次の世界を見ている


僕の宇宙が消える

本当の終焉の日

僕は君を思い出さない

それが本当の終末だ


だから今、君の唇に花束を



                                                       「Heavenly Blue」







第4章 1938年



 左目を失ったのは士官学校に入った翌年だった。

「以上、訓練終わり。各自部屋に戻ってよし」

 隊長の言葉で野外での実戦訓練は終わり、皆わずかにほっとした表情を浮かべた。たとえ訓練でも実弾が使われていればいい気持ちはしない。銃を持つ者は味方でも、流れ弾が出れば怪我もあり得る。無事に終わったことで張りつめていた緊張が緩んだ。

「ようディック、無事か」

 野外とはいっても士官学校に隣接した空き地だ。訓練が終われば現地で解散になり、そこから宿舎までは歩いて数分だった。

 話しかけてきたのは同じ部屋の奴だった。

「ああ。おまえこそ」

 奴が何か言い、俺はそれに返事をしようとした。

 その瞬間、横殴りの衝撃がすべてを包んだ。

 まるで真っ白い地獄のようだった。それを視界の端に認めたときにはもう俺の意識はなかった。



 ぼんやりと目を開けて俺は白い靄を眺めた。夢から覚めたと思ったのに少しも目の前ははっきりしない。まだよく覚醒していない頭で、顔をしかめて手をあげた。

 眩しいほど光は差しているのに、なぜ目の前の自分の手がぼやけたようにしか見えないのだろう。それともこれは俺の手じゃないんだろうか。

 そんなことを考えていたら、カチャリと音がして誰かが俺の方へやって来た。

 どこかで嗅いだことのある、つんと鼻につく匂い。ふと、それが消毒液の匂いだと思い出した。

「気がついたかね」

「ドクター」

 反射的に声が出た。顔はぼやけてよく見えない。背の高いその人は医局の医師だった。いつだったか、見たことがある。宿舎の向かいに建っている医局と病棟。訓練で重傷を負った候補生が運ばれていくのを、皆見ない振りをしていた。

「俺の目はどうしちまったんです?」

 ドクターはしばらくして言った。

「君は幸運だった。・・・隣にいた彼は死んだよ。直撃だった」

 俺は左目がガーゼと包帯で覆われていることを手触りで知った。

「左目は一生使い物にならんだろう。だが君は生きている。・・・ああ、右目はじきに見えるようになる」

 ドクターは傍らの椅子に腰を下ろした。

「聞きたいかね? 事故のことを」

 俺はただうなずいた。まだ視界の靄は晴れない。

 ドクターはごく簡潔に事故のあらましを語った。訓練に使用されていた砲撃弾が暴発したのだそうだ。グラウンドを越えて飛んできたそれは俺たちのすぐそばに着弾した。爆発の直撃を浴びたルームメイトは即死、俺は重傷を負って三日の間生死の境をさまよっていたという。

「しばらく静養したほうがいい。家に戻って」

 そして、ここへはもう戻ってこない方がいい。ドクターは言い聞かせるようにつぶやいた。



 二週間が過ぎ、どうにか歩けるまでに回復した俺は、二度と帰らないはずだった伯父のもとへ戻った。無理に送り返されたと言うべきか。

 ドクターの言葉通り、右目は完全に光を取り戻し、左目は失明した。それでもどうにかまぶただけは開くようになった。傷が残った眼球の代わりに、今は精彩のない義眼が眼窩を埋めている。それを隠すように俺は前髪をのばしはじめた。



「・・・ディック、どうしても戻るのか」

「まだ訓練が残っているので」

 このまま家を継いでほしいという伯父に、俺は頑なに道を譲らなかった。

「メアリに良い婿を探してやってください。彼女の方がこの家を継ぐのにふさわしいと思います」

 今では目の下まで伸びた金髪の陰で俺は出来るだけ冷たくそう答えた。

 彼女は遠くとも伯父と血のつながりがある。気だての良い娘だ。俺とは違う、何もかも。



 士官学校に戻った俺は、前髪で隠した左目の一件からいつの間にか「死神」というあだ名をつけられた。半年間のブランクは埋められなかったが、同期生から4ヶ月遅れただけで無事に卒業にこぎつけた。

 卒業と同時に陸軍の部隊に配属された。第一希望だったパイロットへの道は、左目を失ったときに断たれていた。



                                                   (第5章 1940年に続く)






Kyrie eleison

道に背きしかのマルガリータ

Kyrie eleison

彼女の内に芽生えし幼き生命

Kyrie eleison

聖き灯火(ともしび)を吹き消さんとする彼女の業を

Kyrie eleison

未来永劫の罪に裂かるるファウストを

Kyrie eleison


哀れみたまえ

憐れみたまえ

Kryie eleison


                                                 ~暗い夜 水の底で~  




第3章 1936年



 中学を卒業した俺は、進学の道を捨てて士官学校を受験した。


「・・・どうしても行くのか」

 第二次世界大戦勃発は今日か明日かと、街角で、バーの片隅でささやかれる頃だった。

「・・・わがままを言ってすみません」

 この家で暮らすことが苦痛か、と伯父は尋ねた。俺はただ首を横に振っただけだった。

「何故軍人になど・・・」

 伯父は独り言のようにそうつぶやいた。

「国のために身を捧げる、そんな生き方だってあるでしょう」

 俺は硬い表情でそう答えて部屋を後にした。これ以上ここにはいられない。

 廊下でメアリと鉢合わせた。

「ディック、軍人になるって本当なの?」

「・・・そのつもりだよ」

 目を逸らして出来るだけ冷たく答える。彼女を欺くことは胸が痛んだ。

「ねえ、私と会うのが嫌なら、私が出ていくわ。あなたはここにいて」

 メアリは伯父の遠い親戚の娘で、やはり孤児だった。

 伯父は親族一同とは何か確執があったらしい。記憶にある限り、親戚や身寄りに当たる人間には一度も会ったことがない。

 だが、メアリが孤児になってすぐに伯父は彼女を引き取った。たしかに彼女は素直でまっすぐないい子だった。

 伯父は彼女を俺の嫁にと考えていたのだろう。それを知っていたから、なおさら彼女と顔を合わせるのは辛かった。

 彼女を愛することは出来なかったから。

 俺は答えずに傍らを通り過ぎた。

「ディック」

「・・・メアリ。伯父のことを頼む」

 それだけを言うのがやっとだった。決意が崩れないうちに、俺はその場から逃げ出した。

 そしてそのまま住み慣れた伯父の家を後にした。

 二度と帰ることのない、最初で最後の俺の家を。



 気づかなければそこにいられたのかもしれない。この気持ちに。

 愛していた。

 伯父を。

 血こそつながっていないが、本当の肉親のように慈しみ育ててくれた伯父を、一人の人間として。

 抱いてほしい、と言えなかった。抱かれたいと思う浅ましい自分を恥じた。

 同性愛は教会に禁じられている。たとえ禁じられていなくても、伯父に軽蔑されることが怖かった。自分が男で、伯父にとっては息子であることが悲しかった。

 思いを隠し通すことが辛くて、俺は伯父の許を去ろうと決めた。軍人でも修道士でも、理由は何でもよかった。二度と家に戻れず、伯父に会うこともないのであれば。伯父の手が届かず、どれほど俺が劣情に身悶えても伯父に知られることのない土地であれば。

 どうしても言えなかった。

 伯父にだけは知られたくなかった。

 ずっと以前から俺は伯父を好きだった。父親としてではなく、それ以上の意味で。

「・・・さよなら、父さん」

 だが、どんなに離れても伯父を忘れられないことを俺は知っていた。



                                                      (第4章 1938年に続く)


             *第二次世界大戦・・・1939年、ドイツがポーランドに侵攻。1941年、太平洋戦争始まる




                                                      最初の破滅は

                                                  悪魔に命を売ったとき

                                何もわからず ただ ただ死にたくないと願っていた

                                               君に出会う、まだずっと前



二度目の破滅は

悪魔に魂を売ったとき

発狂の恐怖におびえながら、

記憶を奪わないでくださいと慈悲を求めていた

君に出会って、恋に気づいた頃


                                         最後の破滅をむかえてしまったときに

                                             君だけは涙を流さないでください


                                                         僕のために

 

                                          かすかに鳴り続ける 青のレクイエム





                                                   (不可抗力の痛み)