片岡亮太ニュースレター~時明かり~第84号 | 片岡亮太 ̄めざせ!!ファンキー グルーヴ“千里の道も一歩から~♪♪”

片岡亮太ニュースレター~時明かり~第84号


‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐

0. はじめに

日頃より私、片岡亮太への暖かなご支援、
ご声援を賜り誠にありがとうございます。

例年より少し遅い梅雨入りの発表と共に、雨天が増え、
晴れの日にも湿度を含んだ風が吹くようになってきましたね、
皆様いかがお過ごしでしょうか?

今月は、母校である、静岡県立沼津視覚特別支援学校の学校運営協議会に出席したり、
目白大学人間福祉学科の3・4年生、明治学院大学社会学部社会福祉学科の2年生に向けて
講義をさせていただくなど、教育の場に多くかかわらせていただく一か月でした。

毎週の、筑波大学附属視覚特別支援学校での和太鼓の指導もそうですが、
自分よりも後の世代を歩む人たちへ、思いを届ける機会をいただけていることは、
本当に光栄で、幸せなことだと感じています。

と同時に、その責任の大きさを自覚し、一つ一つの時間と向かい合うためにも、
自分自身の毎日にも情熱と愛情、そして厳しさを欠かしてはならないと
身が引き締まる思いです。

さて、そんな最近ですが、
ありがたいことに、このニュースレターや
「ホームケア土屋」で連載させていただいているコラムを、
お知り合いの方にご紹介くださったり、
SNSの投稿や紙面等で取り上げてくださる方が増えています。

フリーランスの僕にとって、
執筆した文章や演奏動画のシェア、拡散を通じて、
僕の存在を知っていただく機会を作っていただけることは、
何よりの活動支援!

実際、そういったお力添えによって生まれたご縁で
新たなお仕事が決まることは少なくありません。

心から感謝しています。

そして、引き続き、何卒よろしくお願いします!

もしよろしければ、励みになるので、何かでご紹介くださったときなどは、
ご一報くださると、なお嬉しいです。


それでは時明かり第84号をお届けします。

‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐

1. コラム「私の視点」
「静寂≠無」

最近、Youtubeで動画を視聴した後に、耳や頭の疲れを感じていることに気づきました。

おそらく原因は、「静寂」と「間(ま)」の不在。

言葉を探すための無言の数秒間や、
「えー」とか「ああ」などの、「意味のない声」が編集で削られ、
本題だけが繋ぎ合わされた動画は、息つく暇もないほどに「隙」がなくて、
僕には少々忙しなさすぎるようです。

多くの配信者の方たちが切り落とす「間」とは本来、
感情を読み取る手がかりや、
語ったことを話し手と聞き手の双方が咀嚼するための余韻、
あるいは次に話す事柄へ思いを切り替えるための
クッションのような役割を果たしているはず。

近年は音楽も、イントロがあるだけで売れなくなると言いますし、
TVもいつからか、CMを挟まず、
前の番組から次の番組に切り替わることが当たり前になりました。

総じて、コンテンツの提供を「待たせない」、「溜めない」ことが
エンターテイメントの主流になっている時代において、
静寂は不要とされているのかもしれません。

「間」を我慢できない人も増えているのでしょう。

でも、それはもったいないと言わざるを得ません。

なぜなら、「間」があるからこそ生まれる芸術があることを、
僕は演奏家の端くれとして折に触れて感じてきたからです。

20代の頃、僕は、邦楽打楽器奏者の仙堂新太郎先生から、
小鼓を中心に、お能や歌舞伎、長唄などの古典音楽の稽古をつけていただいていました。

古(いにしえ)から届くような、重く低い響きと波長を帯びた掛け声の後に、
みずみずしくも鋭い小鼓の音が、「ポン」と一つ鳴る。

その発声や、一打を生み出す「間合い」には独特なものがあり、
例えるなら、全ての音の手前で常に、
「んっ」と息をのみ、一秒にも満たないほどの空白を作っているような感じ。

それは、役者さんたちの動きに音楽を寄り添わせ、
着物で演奏する際の奏法の様式美を追求する中で、
必然的に生じたものなのだと思います。

小鼓を打つために、右手をゆっくり下げ、
落ち切ったところで一瞬止まって、跳ね上げるように腕を振る。

その美しさを想像すれば、
あの「間」を理解することは容易だったのかもしれません。

ですが二十歳そこそこで、なおかつ音を主軸に音楽を感じる僕には、
それが理解できず、
「情緒のない演奏やなあ」と、仙堂先生からよくダメ出しをされたものです。

今思えばそれもそのはず。

当時は、「和太鼓でポップスのような音楽を作りたい!」と試行錯誤していた時期。

ドラムやパーカッションのリズムを真似ては、
「素早さと細かさ」にこだわって撥(ばち)を振ってばかり。

そんな僕の演奏にはおよそ「間」と呼べるものがありませんでした。

普段なら、何十発も打数を重ねているはずの時間の中で小鼓が行うのは、
「よ~」とか「ほ~」と長く声を伸ばした後に、たった一回、皮を打つだけ。

にもかかわらず、激しい太鼓の連打に相当するほどの迫力や引力を持つことに、
あの頃の僕は衝撃を受けました。

古典音楽は、曲の中に一定の長さの「拍」が存在するわけではなく、
その感覚は常に変化し、
場面によっては奏者同士の呼吸でアンサンブルを構成することもあるなど、
有機的な曲線とか、生き物を思わせる特徴を持っています。

それは8分音符や16分音符という等分に区切られた目盛を持った
平面のようなものの上でリズムを生み出す現代の音楽とは全く異次元のもの。

決して会得できたなんて言えませんが、
仙堂先生の模倣を通して、
そういう日本の古典音楽が持つ「間」の魅力を学べたことは、
今日の演奏にも生きる意味深い経験でした。

特に、大太鼓の独奏において、
ゆっくり腕を振り上げ、静けさの中で丁寧に音を紡ぐシーンがあるからこそ
ダイナミックな強打が際立つ点には、小鼓に通じるものを感じます。
(と言っても、まだまだ再現はできないのですが…)

会話の中で、不意に訪れる静寂が、
シチュエーションに応じて、気まずさや、温かさ、親密さの表れだったり、
時にはそこに感情の波立ちが見えることさえあるように、
演奏における無音の時間とは、聴衆の集中力や期待を掻き立て、
後に響く音をより豊かに彩り、深みを増すことができる大切なエッセンス。

音楽の「間」、文章の「行間」、会話の「静寂」は決して「無」を意味するのではない。

スピーディなエンタメやコミュニケーションに溢れた現代だからこそ、
そのことを感じていただけるような演奏や言葉を、僕は届けていきたい。


‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐

2. 今月の一枚「私の視線」

小鼓は、左手の甲に同を乗せ、
両面の皮を繋ぐ「しらべ」と呼ばれるロープに指をかけて、軽く握り、
皮が適度に張った瞬間に右手で打ちます。

そのタイミングが合わないと、全く音が鳴ってくれない、なかなかに難しい楽器。

でもそこが面白い!!

奥深い小鼓の魅力、これからも探求していこうと思います。

https://www.instagram.com/p/C8vx7o9yEQU/?igsh=aTNxdHg1dTBtbmV4

‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐

3. 活動報告(6月)

6/18 静岡県立沼津視覚特別支援学校「令和6年度第一回学校運営協議会」に、
学校運営協議員として出席
* 気付けば、母校の教育活動に対して、助言をさせていただく立場を、
10年ほど続けさせていただいています。
引き続き後輩たちの学びに貢献できるよう、尽力いたします。

6/21 目白大学人間福祉学科「人間福祉学専門セミナーA」にて講義と演奏
* 3・4年生約120名ほどに向けて、僕が考える社会福祉の実践について、
また、ダイバーシティやインクルージョン、その対極にある差別や偏見、
社会的廃除などについて、演奏を交えながらお話させていただきました。

6/25 明治学院大学社会学部社会福祉学科「ソーシャルワーク実習指導1」にて講義
* 2年生約20名に向けて、社会における多様性を推進していくために必要となる
多様な視点を持つことや、様々な出会いを経験することの大切さについてお話しました。

‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐‐‐=‐‐‐‐‐

じめじめした雨と猛暑とが交互にやってきて、
想像の中の亜熱帯ってこんな感じだなあと思いながら、
汗だくで太鼓を打ったり、話したり、文章を書いたりの毎日です。

皆様、脱水や熱中症にはくれぐれもお気をつけてお過ごしください。

----------
  片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
 「人が集い、音が響き、時が輝く」
☆演奏、講演、指導(グループでも個人でも可)、執筆等、ご連絡は以下から☆
 いつでもお待ちしています。
Mail: r_taiko_fukumimi@yahoo.co.jp
Blog(Japanese): http://ameblo.jp/funky-ryota-groove/
twitter: http://twitter.com/funky_ryota
Facebook: http://www.facebook.com/#!/ryota.kataoka.566
youtube channel: https://www.youtube.com/user/Ajarria