奥三河山間地域における製糸業の成立と衰退
―旧南設楽郡海老町の近代産業史―
要旨
本稿は、奥三河山間部に位置する旧南設楽郡海老町(現・新城市海老地区)を対象として、江戸時代の山村社会から明治・大正期における製糸業の発展、さらに昭和期における衰退までの地域産業史を検討するものである。海老町は山間地域に位置しながらも、明治後期に養蚕業と製糸業の発展により奥三河の商業拠点の一つとして発展した。しかし昭和初期の世界経済の変動と戦時体制の進展により、生糸産業は急速に衰退した。本稿では、地域産業の興隆と衰退の過程を地方史の視点から整理し、日本近代における山間地域の産業構造変化を考察する。
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一 はじめに
近代日本において生糸産業は最大の輸出産業の一つであり、多くの農村地域に養蚕と製糸を基盤とする地域経済を形成させた。特に中部地方の山間地域では、養蚕が重要な副業として普及し、地方社会の経済構造を大きく変化させた。
奥三河地域もその一例であり、設楽山地に位置する海老町は、明治後期から大正期にかけて養蚕と製糸業を基盤として発展した町として知られる。しかし昭和初期以降、国際経済の変動や戦時体制の進展により、生糸産業は急速に衰退した。
本稿では、旧南設楽郡海老町の産業史を通して、山間地域における製糸業の成立と衰退の過程を明らかにする。
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二 江戸時代の海老地域
海老地域は江戸時代には旗本領を中心とする山間農村であり、領主としては菅原氏系統の旗本が知られている¹。
当地を構成する主な村落としては、海老村、四谷村、山中村、湯島村、大石村、双瀬村などが挙げられる。これらの村落は設楽山地の谷沿いに形成された小規模な山村であり、耕地は狭小であった。
そのため農業生産は自給的性格が強く、主な生業は焼畑農業、林業、炭焼きなど山林資源に依存していた²。
江戸後期になると養蚕が徐々に普及し、繭の販売による現金収入が農家経済を補完するようになった。山間地域における養蚕の普及は、耕地の制約を補う農家副業として重要な役割を果たした。
また当地は信州と三河平野を結ぶ街道沿いに位置し、地域交通の拠点として一定の商業機能を有していた。
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三 町村制と海老町の成立
明治維新後、旧幕府領や旗本領は新政府の直轄地となり、その後の廃藩置県によって行政区画が再編された。
明治二十二年(一八八九)の町村制施行により、山中村と湯島村が合併して中島村となり、大石村と双瀬村の一部が副川村を形成した。その後、海老村、四谷村、連合村、中島村および副川村の一部が合併し、新たな海老村が成立した³。
さらに明治二十七年(一八九四)、海老村は町制を施行し海老町となった。これは南設楽郡において新城町に次ぐ第二の町制施行であり、海老が地域中心集落として発展していたことを示している。
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四 養蚕業の発展
明治後期、日本の生糸は重要な輸出品となり、主として横浜港から欧米へ輸出された⁴。
この輸出拡大の影響を受け、全国各地で養蚕業が発展した。奥三河地域も養蚕地帯の一つとして成長し、海老地域でも明治三十年頃には養蚕組合が組織されるなど、生産体制の整備が進められた⁵。
これにより周辺山村で生産された繭が海老町へ集まり、市場町としての機能が強化された。
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五 海老製糸場の設立
明治四十一年(一九〇八)、海老町において合名会社海老製糸場が設立された。
機械製糸技術は、明治政府が設立した模範工場である富岡製糸場によって全国に普及し、地方各地で製糸工場が設立された⁶。
地方製糸場の多くは、地元養蚕農家、商人、金融機関などの共同出資によって設立される合名会社形態をとった。海老製糸場も地域資本によって成立した企業であったと考えられる。
製糸場は多数の女工を雇用し、周辺農村から若年女性労働者が集まった。また町の商業活動も活発化し、銀行支店の設立や交通機関の整備が進んだ。
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六 昭和恐慌と製糸業の衰退
しかし昭和初期、日本の生糸産業は深刻な危機に直面する。
1929年に始まった世界的経済不況、いわゆる世界恐慌は、生糸最大市場であったアメリカ経済に大きな打撃を与えた⁷。
その結果、生糸価格は急落し、日本国内の製糸業は深刻な経営危機に陥った。地方製糸場の多くが操業縮小や閉鎖を余儀なくされ、海老町の製糸業も次第に衰退していった。
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七 戦時体制と製糸業の終焉
さらに昭和十二年(一九三七)に勃発した日中戦争以降、日本は戦時体制へ移行した。
政府は軍需産業を優先する政策を進め、繊維産業にも統制を加えた。その結果、輸出産業であった生糸産業は縮小し、多くの製糸工場が操業停止または転業を余儀なくされた⁸。
この影響により、海老町の製糸業も昭和十三年前後から急速に衰退した。
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八 戦後の地域産業の転換
第二次世界大戦後、日本の繊維産業は大きく変化した。化学繊維の普及や国際市場の変化により、生糸産業の重要性は急速に低下した。
その結果、奥三河地域においても養蚕農家は急速に減少し、製糸工場の多くは閉鎖された。海老町も例外ではなく、近代期に地域経済を支えた製糸産業は戦後にはほぼ姿を消すこととなった。
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九 結論
海老町は江戸時代には山間の農村であったが、明治後期以降、養蚕と製糸業の発展によって奥三河の商業中心地へと成長した。
しかし昭和初期の世界恐慌と戦時体制の進展により、生糸輸出産業は急速に衰退した。その結果、海老町の製糸業も縮小し、戦後には地域産業の中心的役割を失うこととなった。
海老町の近代史は、日本の生糸産業の興隆と衰退を地域レベルで示す典型的事例であるといえる。
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注(脚注)
1. 『鳳来町誌』歴史編、鳳来町教育委員会。
2. 『南設楽郡誌』南設楽郡役所編。
3. 同上。
4. 石井寛治『日本蚕糸業史分析』東京大学出版会。
5. 『愛知県蚕糸業史』愛知県。
6. 富岡製糸場研究資料。
7. 中村隆英『昭和恐慌』岩波書店。
8. 『日本製糸業史』農林水産省資料。