明治中期、麹町から奥三河の海老町へ。340キロの彼方へ、曽祖父母一家が向かった理由。


記憶の遠近法
ブルーノ・タウトが桂離宮を絶賛し、対極として日光東照宮を俗悪と断じたのは有名な話だ。若い頃、私はその二項対立にどこか違和感を覚えていた。どうにも、日本という国の骨格がそこからは見えてこない気がしていたのだ。だが、長い時間を経て、いまようやくその理由がわかりかけている。タウトが見たのは表層の意匠であり、私たちが纏うべき歴史の深みは、もっと別の、長い時間の積層する場所にある。

明治三十年(1897)頃、あるいは同十年(1877)代、もっと昔かもしれない。
豊橋から車を走らせて1時間、奥三河の南設楽郡海老町(現・愛知県新城市海老)という土地がある。伊那街道(中馬街道)において、信州方面から下ってきた道が、新城や吉田(現在の豊橋市)方面、あるいは岡崎・名古屋方面へと分岐・接続する交通の要衝だった。江戸時代後期には海老菅沼氏の陣屋も存在した。

東京のど真ん中、麹町四丁目から、我が曾祖父母である七五郎とかねの一家が、この地に家族で移住した。六男三女をもうけ、その何人かの名前は明治後期の海老小学校の卒業名簿にも残っている。

江戸時代であれば340キロ、徒歩、馬車、渡し舟などで12日〜14日はかかるという遠地。電気もなく、鉄道もなく、住む家もなく、縁者すらない山あいの地に、なぜ彼らはピンポイントで辿り着くことができたのか。

その謎が、ようやく解けつつある。因みに明治三十三年(1900)に近隣の大海まで鉄道が開通し、乗り合い馬車での往来が可能となった。

過去帳と失われた記録
仏壇に納められた過去帳をひらくと、宮大工棟梁であった七五郎には三人の弟子が従っていたという。だが、そのうちの二人は明治十五年(1882)前後にこの地で亡くなっていた。

我が家のルーツをたどれば、高祖父にあたる貞八(1828〜1904)は神職・作事方の幕臣であったとされる。もっとも、江戸時代の実態といえば千駄ヶ谷聖輪寺に残る過去帳の記録と「貧乏旗本」や「御家人」といった、親族間で語り継がれる朧げな口伝があるばかりだった。

それが近年、国会図書館デジタルサーチで明治二十二年(1889)の日本紳士録第一版を開いたとき、思いがけない記録に出くわした。『鶏卵問屋 甲州屋』。青天の霹靂とはまさにこのことだ。さらに今年に入り、海老町の歴史研究家との縁から、曾祖母かねが中心となって営んだ製糸場「かねェ製糸」、そしてそれが発展した明治四十一年(1908)の合名会社海老製糸場の写真まで確認することができた。
だが、疑問は残った。

大正五年(1916)に七五郎の弔いを行った東泉寺や海老神社の棟札を調べても、修繕を含めて彼が仕事をした形跡が見当たらないのだ。製糸ラッシュに沸いた大正期の海老商店街には130もの店舗が並び、かねの営む「髪結 東京屋」もその一つだった。七五郎も建物のどこかに関わっていたはずだとは思うものの、明治三十年(1897)から大正五年(1916)に至る約20年間、宮大工棟梁としての彼の足跡は、別の場所にあったのではないかという予感がしていた。
同時に進めていた高祖父・貞八の先祖探しは、千代田区や台東区の役所に問い合わせるも、除籍簿が戦災で消失しているという非情な知らせに阻まれた。

鳳来山の光と、遠い日の血脈
失意のなかで、一筋の光が差した。
豊橋から鳳来寺山をまわって海老町へ抜けたとき、ふと奇妙な距離感に気づいたのだ。麹町から海老町までの途方もなさに比べれば、海老町と鳳来山の距離など目と鼻の先にすぎない。
鳳来寺山といえば、1425段の石段と静謐に佇む鳳来山東照宮である。
東照宮といえば日光や久能山が思い浮かぶが、徳川家康の神格化を主導した天海大僧正の出自には諸説ある。その中に、会津舟木景光の子「舟木兵太郎」とする説がある。神事や作事、すなわち神社仏閣の造営に携わってきた我が家と東照宮の結びつきは、単なる主従関係を超え、血脈と信仰の根幹に関わっているのではないか。これまで畏れ多くて検索すらできなかった「東照宮 舟木」の二文字を、ついに国会図書館デジタルサーチに入力してみた。

ヒットしたのは2件の記録だった。

『大日本史料』元和八年(1622)の項に見える、東照宮忌奉幣という幕府の最重要儀礼で実務を担った「右近府 舟木徳與」。 

そして、宝永元年(1704)久能山東照宮の祭祀で極めて秘儀性の高い挑燈燃役を務めた「舟木平右衛門」。

いまのところ、東照宮に連なる舟木氏との直接的なつながりを証明する物証はない。
だが、慶応四年、江戸城を追われた旧幕臣たちは禄を失い、生きる糧を奪われ、文字通り「魂の居場所」を剥ぎ取られた。所謂、没落である。

高祖父・貞八が麹町三丁目で鶏卵問屋を営みまずは経済的な足場を固める一方で、宮大工棟梁であった曾祖父・七五郎(明治維新時10歳)は、職人としての技と、幕臣の末裔としての誇りを胸に、生きる道を選んだに違いない。

明治の初期から中期に、親戚縁者もない奥三河の地に、なぜ彼らはピンポイントで移住したのか。

鳳来山東照宮という「引力」
その答えは、徳川家の聖地だった東照宮は東照大権現という幕臣たちの精神の拠り所であり、一人の崇敬者として先祖代々受け継いできた「神職・作事方幕臣・宮大工棟梁」という、血脈の記憶そのものにあったのだと、いま私は思っている。
鳳来山東照宮は徳川家光の命で造営され、慶安四年(1651)に完成。その後、江戸時代に幕府による修理10回、明治以降に修理7回あったとされる。


【鳳来山東照宮プロジェクト 組織図】
 
🔳最高発注者(Owner)
 徳川家光(江戸幕府 3代将軍)
 🔳プロジェクト総監修(Spiritual Supervisor)
 天海(南光坊天海)(東照大権現の理念・敷地選定・宗教的ディレクション)
 🔳幕府統括責任者(Executive Sponsor)
 阿部忠秋(老中 / 予算配分・スケジュール管理・大名統括)
 🔳現地プロジェクト統括(Project Director)
 太田資宗(浜松城主 / 現地全体の総指揮、治安維持、資材調達)
 🔳地域サポート(Regional Supporter / 御普請御手伝方)
 吉田城主、西尾城主、横須賀城主ほか(三河近隣の有力大名 / インフラ・労働力・運搬支援)
 🔳チーフ・アーキテクト(Chief Architect & Master Builder)
 木原義久 & 鈴木長恒(作事方御大工頭 / 幕府の最高技術責任者チーム)
 🔳フィールド・エンジニア(Field Operations)
幕府手配の宮大工棟梁および配下の弟子たち(東照宮の最先端技術を現場に実装する実務部隊)及び東照宮、東照大権現の崇敬者。