YA-MANにOFGキックボクシングルールで目を覆いたくなる程のノックアウト負けを機し、その後投稿されたyoutubeチャンネルでは、そのダメージが相当酷いものであると確信した。このブログはかなり前に書いて下書き保存してあったが、記憶が完全に戻ってからの手助けになればと思い、前段を書き直した。


少し前いつもの古本屋の豊橋郷土本コーナーにあった古本(昭和23年刊)をパラパラと捲ると、江戸時代に大庄屋だった朝倉家(朝倉仁右衛門)の記事が目に止まった。


驚いた事に朝倉兄弟の実家と同じ地区ではないか!


個人情報に繋がるので詳しくは書けないが、その地区には朝倉家が数件(約50人)まとまって存在し、なんらかの血の繋がりがある可能性を感じ、その大庄屋のルーツを追った。


最終的には、国会図書館収蔵資料で確認したその驚きの内容の一部を以下に記する。


◾️越前の名族、室町時代中期の武将朝倉孝景の後裔。
◾️天正年間に越前に亡びるがその子孫が京都を経て、当地に流寓、ついにこの地に土着した。
◾️足利から徳川初期にかけて近村13村の大庄屋だった人から郷士の身分を譲り受けた。

予想はしていたが、室町時代の武将朝倉孝景の後裔の可能性があるではないか。それに繋がるとされる江戸時代の大庄屋朝倉家との【血縁関係が未確認】ではあるが、かなりの確率で同じ血族ではないかと思っている。

朝倉孝景のWikipedia情報によるとその【戦績】もさることながら【悪行と言われる程の類稀な経済的センスや特別な権力】も目を見張るものがある。

追記


豊橋の郷土研究家 鈴木源一郎『東三河の廃仏毀釈』には細谷村が幕府直轄の天領であった事、当地出身の朝倉仁右衛門と廃仏毀釈との関わり等の記述があった。