実は私もそう感じているが、朝倉未来のエネルギーや精神性は、一乗谷で織田信長と合間見えた戦国武将、朝倉義景を思い出す。
【一乗谷の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、天正元年8月(1573年9月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦である。但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、激戦地の名を冠して刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)とも呼ばれる。
15日から16日にかけて、信長は味方の将兵を労うと同時に休息を取らせた。そして17日には大軍を整え、義景の元家臣前波吉継を案内役にして越前に攻め入った。
一方、義景は15日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣したが、味方の劣勢を知った国内の武将らで馳せ参じるものもなく、もはや義景の手勢は近習含めわずか500人となってしまっていたと伝えられる。ここにおいて、従弟で朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、一乗谷を捨てて越前北部の大野郡にて形勢の建て直しを図るように進言した。大野郡は盆地であり守るに堅く、当時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺を頼りに再起を期そうと促した(平泉寺は勇猛で知られる僧兵集団があり、近江出兵で丁野城の守備についていた)。しかしこの時、すでに平泉寺の僧兵も所領安堵などを条件として信長と内通していた(木下秀吉による事前工作と伝えられる)。
18日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧して焼き払った。一乗谷突入の際の信長方で、最も際立った働きをしたのは当主武田元明を朝倉の捕虜にされていた若狭武田氏旧家臣らであったと伝えられる。この時、朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が織田軍と戦ったと伝えられている。
それより以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、景鏡に促され大野郡へと移動していた義景は20日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六坊賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢200に囲まれた。近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃、景鏡は義景の首を持参し信長に降参した。義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾小少将など、義景の極近親者は降伏を条件に助命され捕らえられた。義景近習の一部はあえて殉死せずに生き残り、彼らの助命交渉やその後の世話をしようと決めていたが、織田軍により義景の係累たちは護送中に処刑された。
一部の武将、一族衆らは織田方に参したが、特に重く用いられるものはなかった。またその他の親族衆・武将らがその後、反乱を企てたり、一向一揆とともに決挙したりしたが、数年後、越前一向一揆殲滅のため越前に再侵攻した信長の前には無力であった。
この後、織田方は軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼした。】
実際のところは不明だが、朝倉兄弟が持つ漲る自信、強靭な体幹は、戦功をあげた武士の末裔ではないかと思っている。
豊橋には戦国時代の城 二連木城跡(大口公園)があり、その北側をなんと!朝倉川が流れている。
朝倉義景の亡霊に注意!
