ヘビーメタルのその後に

ヘビーメタルのその後に

真っ白だった壁もいつしか日焼けして
絶え間なく注ぐ愛の名を永遠と呼ぶことができない

2008.3 地元ブログ併設(http://funkrocker.junglekouen.com)
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【アメリカ人って一体何者?という話】

日本にいて、普通にテレビを見たり新聞を読んだりしていると、米国の話を耳にしますよね。私たち一般庶民はそれをどう受け止めるべきなんでしょう。特に、戦争したじーさんばーさんの孫の世代にあたる私たちは。

この動画に登場する2人は、2016年の米国大統領選挙に向けて現在立候補している人たちです。1人はヒラリー・クリントン、もう1人はバーニー・サンダース。今回は後者バーニーさんに注目してねということでこの投稿を書いています。

テレビや新聞で、米国政府はうんぬんかんぬん、と言いますよね。そうか、米国はこうなんだ、と額面通りに受け取るのがまあ普通かなと思います。
ですが。
米国に住む人々がみんなして、日本のニュースに出てくるような米国政府の見解を支持している訳ではないんです、実は。
実はというか、まあ当たり前の話っちゃあそうなんだけど、でも遠い国のことだから、よくわからない。言葉も違うから、翻訳されたものしか分からないし。

日本で耳に入る米国に関するニュース、そこに示される米国政府の見解がどれくらいの米国人の賛同を得ているか。
(控えめに表現すると)みんなというわけじゃないんです。特に、この動画で取り扱われている、軍事に関するようなところでは。

じゃあ一体どんな意見があるの?ということで、例えば今回立候補しているバーニーさんの立場。
「よその国まで出かけていってわざわざ戦争するなんて、道徳的に決して受け入れられない。無理。ゼッタイ無理。そんなのおかしい。」
だってさ。

嘘だろう、と思うかも。
そんな人が米国にいるなんて信じられない、
いたとしても、どうせ(日本でいうところの社会党または社民党や共産党みたいな)少数派の意見だろう、と。

数としては、少数派なのかも。

でも、もちろん僕の無知、もともとの思い込みからくるところですが、驚いたんです。
この意見が、大統領選挙に立候補する人の口から出るんですね、と。
そしてこの動画に明らかですが、議会での、論理明晰な発言。聞いてみて。ほんとに。
人々から支持を受けてそこに立つ人物が、国民全体の支持を仰ぐ場で、堂々と表明している。
少なくとも、政府決定とは対立するこういう見方が、国会に上がってくるだけの厚みをもって存在している。

僕がこの2年間、イリノイで接した地元の方々からも、同様の意見を聞きました。
ただし、僕がイリノイで出会った人々は、もとからそういう考えだからこんな留学生と接する機会を持つことになっただけだ、ともいえます。
したがって、ここに注釈抜きで書けることとすれば、「そういう意見の人が少なからずいるんだよ」くらいでしょうか。

<まとめ>
アメリカ人って一体何者か?その答えを、だれかが商売で書いたニュースや新聞に求めてはいけないんです。
僕は、ホニャホニャ国の国民というラベルに頼らず、1人の一般庶民として、遠くの土地に生活するひととも付き合っていきたいとささやかに願っています。

とあるフレコミを見かけた。下部に引用してある。

それを読んでの所感を書き留めておこうと思う。

ここで記述されているような現実(身の回りの人の中に軍需産業の従事が少なからず存在する)を認識することが、私に言わせれば、スタート地点。
周囲にこうした産業構造に組み込まれて日々を暮らす人々を抱えながら、一人の社会的個人として、どう現実と切結んで行くのか。自分の信念にどれだけ妥協すべきなのか。
それを考えながら、この10年来、生きてきた。

軍事産業について皆が反対だと言う前提に立っているわけではない。当然、個々人の態度は異なる。
私の態度について言えば、第一に、こうした産業があたかも軍事や環境破壊などには関わっていないかのように見せかける、その「欺瞞」を嫌悪する。したがって、少なくとも現代の日本に存在する欺瞞的な、軍需産業は嫌悪しなければならない、ということになる。

別の言い方をすれば、私は軍需産業自体を否定しているのとはちょっと違う、ということである。軍事は太古の昔から人間社会に不可欠な要素であり、その運用がなされなければ社会の維持も立ち行かないことはどうやら明白である。
しかし、帝国主義的軍事運用には心底反対である。帝国主義的軍事運用とは、自らの欲望の充足のために軍事力を行使して外部(他国あるいは他社会)に損害をもたらす行為である(と私は定義づける)。

困ったことに、現代の軍需産業はほぼ例外なくこのような意味での帝国主義的軍事運用に加担しているのである。
従って、再びではあるが、私が現代の軍需産業についての態度を表明しなければならないとなれば、このような理由によっても、反対せざるを得ないということになる。乱暴に言えば、人の者を奪って喜ぶような腐った精神を持つくらいなら、孤立無援の隠遁生活を送った方がましじゃないのか(できれば衣食住に困らず同胞と朗らかな日々を暮らせる場所で)、ということである。

私とは異なる態度、つまり現代の軍事産業を肯定する人々は周囲にちらほらいる。その中で気にかかるのは、肯定的態度をとる理由として、帝国主義的軍需産業に対する根源的な肯定ではなくて、「だってみんなやってることだから」という理由で肯定する人々である。
これは人間の感情として自然ではあるが、美しい精神とは言えない、と思う。自分の頭で考えて、自分の心で決める人が、私は好きなのである。語るための自分の言葉を持ち、共通了解に至るまで意思の疎通のための努力を惜しまない人はもっと好きである。

さて、話を元に戻すと、私は軍需産業に反対であり、周囲には軍需産業に従事する人々が少なからず存在するということである。(間接的に軍需産業を下支えする人も含めれば、その数は膨大になるだろう。私よりも厳格な線引きの仕方をする人に言わせれば、もしかすると私もその間接的な従事者に含まれるのかもしれない。)

しかしそれでも、私は友人達を好きだし、血縁者はかけがえのないものとしてとらえる、というごく社会的な感覚をもって生活を送ることを選択している。(私の生い立ちは私にそう選択することを促してきた。今後変化するのかはわからないが。)

現実の認識の程度は様々であるが、おそらく直接ここでいう軍需産業に従事する人々を除いては、その状況を認識する人々は少ないのではないだろうかと私は思っている。この場合、身の処し方というのは、これら両者にとっては割とシンプルだと思う。つまり、その内部にいる人は軍需産業を肯定し、認識の外側にいる人々は否定する、という態度をとるのではないだろうか。(明示的にせよ、そうでないにせよ。)

そうなると、問題となるのは、その認識をもちながら、その軍需産業の内部には居を構えない人々である。
その多くは、アカデミズムに存する、情報収集力のある人々であろう。
そうした人々は、(そうとは思われていないが実際にはそうである)軍需産業を嫌悪する。しかし生活のレベルにおいては、軍需産業に従事する人々とも共に暮らしていかなければならない。
さてどうする。困った困った。信念はあるが、それをいちいち表出させて嫌われ者にはなりたくない。ひとりぼっちも寂しい。



この困った状況をもっとも簡単に解決する手段がある。



それは、リベラル化することである。

つまり、人それぞれ、思想、道徳、行為の選択は自由に行うべきだというイデオロギーである。
このイデオロギーを採択すれば、あいつは違う思想をもってるけどそれはそれとして友達として好きなんだ、という言い訳を自分に言い聞かせることが可能になる。


しかし、言い添えておくと、その言い訳はおそらく表層的なものでしかない。状況が状況であれば、「あんたのおとうちゃんの仕事のせいでうちのおかあちゃんは殺されたんよ、どうしてくれるんね」という言説が顕在化することもあり得る。そうした状況で、「それはそれとして」の言説はその地位を譲り渡すことになると思う。


きっと今、私は、このリベラル化の技術を適宜使用することでどうにか上手く日々を凌いでいる。


これが今後どうなるか、わからない。
人生は楽をさせてくれない。



ーーーーー以下引用

 皆さんのお父さん、お母さん、お爺さん、御婆さん、お兄さん、お姉さん、叔父さんや伯父さん、叔母さんや伯母さん、あるいは彼氏、彼女、友人にこんな悪徳企業に勤めている人はいませんか? こんな強欲企業の株を売り買いして利札切りをしている人はいませんか? 三菱重工業、川崎重工業、三菱電機、日本電気、東芝、富士通、日産自動車、日立製作所、小松製作所、ANA全日空、伊藤忠アビエーション、JX日鉱日石、昭和シェル、石川島播磨重工業、日立造船、三井造船、新明和工業、ダイキン工業、IHIマリンユナイテッド、コスモ石油、沖電気・・・すべて人殺しの武器製造や自衛隊に寄生して利益を上げる死の商人すなわち軍需産業です。
 そしてこうした死の商人に莫大な金貸しをしているのが三菱UFJ、みずほ、三井住友、農林中金、りそななどの強欲金融資本です。三菱商事、三井物産、 伊藤忠商事 、 住友商事 、丸紅などの悪徳商社は武器輸出入で膨大な利益をあげてきた死の商人です。 基地建設など自衛隊関連施設で巨利を得てきた大手ゼネコンなど建設建築業界も強欲な軍需産業です。さらにこうしたトップ企業に連なる数千社の企業が軍需産業として利益をあげています。イージス艦一隻で二千社、戦闘機一機で千社、戦車一両で数百社が群がって利益を貪っています。

 こんな企業に家族が関わっていて、そこを不問にして、ここには触れないでニュートラルにしていてデモや抗議行動に参加している・・・なんかヘンですよね。もっとも身近なところで、戦争を準備している死の商人に加担していたり、それなりに豊かな生活の糧を軍需産業から得ている家族がいて、「見ざる・聞かざる・言わざる」ではおかしいのではないでしょうか。大企業に限りません、関連企業だったり、流通関係や広告代理店だったり、企業広告に依存したマスメディアだったりしても、軍需産業に加担してる可能性はかなりありますから。

 良いお父さん、お母さんかもしれませんよね。優しいお兄さん、お姉さんなんでしょうね。そんな家族を追及したり、批判したり、論争したりなんかできない・・・学校の授業料出してもらっているからとても話せない・・これではいくら「安倍を倒せ!憲法壊すな!」コールしていても、日常が問われていないことになりませんか。

 あるいは皆さんの通っている学校、大学の先生たちって、こんな企業から助成金や補助金なんか貰っているんじゃないでしょうか。軍需産業や原発関連企業などと共同研究なんかしてるんじゃないでしょうか。あるいは政府や官庁からばっちりお金をせしめて研究費なんか貰っているんじゃないでしょうか。政府や強欲企業を批判して「安倍を倒せ」なんて言いながら、お金はちゃっかりもらってるなんてあり得ないと思いますが、罪悪感もなく当然の権利なんて言ってるのっておかしいと思いませんか。どこか嘘がありますよね、こういう大学の先生たちって。

 音楽や美術、演劇や映画、建築やデザインなどの世界では、当然のように国や企業からお金をせびってながら、当たり前のことだと思いこんでいる人たちがごろごろいます。メセナだなんて横文字にすると格好が良いのかもしれませんが、悪徳企業のひも付きで何も言えなくされる覚せい剤中毒みたいなものです。

 これでは政府や悪徳企業に何も言えなくなりますよね。あるいは休日や夜になってデモや集会には来て「安倍を倒せ」コールしてながら、月曜から金曜あるいは日中は政府や企業の手先や使い走りになっているのっておかしいと思いませんか。「資本主義って何だ?! 強欲と搾取と抑圧と恐怖だ!」「ドロップアウトした人間なめるな!」 「非国民って決めつけられる少数派いじめるな!」

 こんな大人たちって、資金がいるからとか、研究費がかかるとか、生活があるからとか、子どもがいるからとか、ローンがあるからとか言っていても、結局政府や悪徳企業に依存して、客体として従属するか隷従しているのと違いますか。選挙で票を投じたり、戦争法に賛成した議員を落とす運動も大事です。「政治」や議会で闘う人がいても当然でしょう。数の論理、奴が敵だ、奴を倒せという論理を貫く人もたくさんいて当然です。

ーーーーー引用終わり

気が付けばいつのまにか帰国していました。
素晴らしい2年間でした。クソ勉強しました。
そして、現在は九州大分の実家で卒業試験勉強中。
浪人生の様な生活。・・・浪人、したことないけど。

そんな中、Youtubeで勉強用BGMを探していたときのこと。
動画始めの広告にJICAの広告が出てきました。
広告スキップするまでの5秒間、視聴を余儀なくされる。
そしてその5秒間の間に、若い女性(客観的描写に過ぎません)がこんなセリフを口にする。

「海外の人達のためになにかしたいと思ったんです!」

で、赤茶けた土のグラウンドで、黒人の貧しい少年達(映像制作側の目線)と戯れるシーンを映す。あなたもJICAのプログラムにボランティアで参加しませんか、というメッセージ。





ここで私の善良な精神が脊髄反射を起こしました。





これを観て「ああ、私も海外の貧しい人達のために何かしたいかも!」と思う(思わされる)方々がいらっしゃるんだろうか。
ああ、そういえばそんな感じの大学生、よく見かける。

でも、ちょいとお待ち。
海外の人々のために何かをする前に、自分の周りの人々のためになにかしたらどうかしら。
肉親、親族、自分を育ててくれた人々、自分の後を継ぐ人々。自分が住む地域の人々。

誰かが何か人の助けを必要とするというとき、その助けをもっとも善くやれるのは、その人のことをよく知る人でしょう。
例えば、老人福祉施設の素人サラリーマンの方がよく面倒を見られるなんてことはあるはずがない。老人もそんなとこに入れられたほうが幸せだったりはしない。
と、私は思うのだが。




逆の立場だったらどんなかんじかなという描写もしてみましょう。

大分の片田舎に貧しい少年達がいたとする。
そこに米国の政府機関から、日本語を一切喋りもしないオネーチャン達が派遣されてくるとする。わいわいきゃいきゃいやるとする。肉体労働もするとする。それで一緒に遊んでる間はその少年達は笑顔を見せるとする。
2年間の派遣期間が終わり、オネーチャンたちは帰国することになる。少年達は、帰らないでくれと言う。もちろん、オネーチャンたちは大分の片田舎なんかに定住する気は毛頭ない。

だって、このプログラムに参加したのはそもそも、国の金で修士を取れる、帰国してから給料のいい企業に就職できる、それから自分勝手な満足感を得て気持ちよくなれる、という理由からなんだから。当然である。



まあちょっと意地悪に書いたけど、こんなもの。

ちなみに参考にしたのは、Peace Corpsという米国のプログラム。





日本人が黒人の少年達のところに飛び込んだところで、同じこと。

だから、そんな広告見ても間違っても海外に行こうなんて考えずに、
そんなことする暇があったら勉強するとか、
親の世話をするとか、
地域の若者のために時間を使うとか、
もっと他になんでもいいからとにかく、
海外のわけわからん人やなくてあなたにしかできんことをあなたの場所でやって欲しい。と思う。







え?自分には肉親も、親族も、守るべき地域もコミュニティも、言語能力もない?だから海外に行く?

そんな人はきっと海外に行っても迷惑されるだけだから、行かなくてよろしい。

 「誤った投票は避けるべきだ」「政治について意見をもつためには知識が必要である」という考え方も、日本の民主主義的政治機構を機能させるためには適切でない。多くの人々が、「国民全体の利益のための政策として正しいものを選ぶ投票」を目指しているように見受けられる。そして、まるでそこには正解があって、より多くの知識をもった参加者がよりよい選択を行えるかのように考えられている。当然の帰結として、知識に自信のない人々は、正答を導く力に欠けているからおとなしくしていよう、という話になる。間違った解答を発表するのは恥ずかしい、という感情も生まれる。

 だが、これはテレビのクイズ番組でもなければ、試験問題でもない。先に述べたように、万人を利する「国益」を想定することが間違いの始まりなのである。民主主義社会の政策において、唯一の正解などない。「世の中には政治に関する知識をもっている人々と、そうでない自分のような人々がおり、政治について考える行為は知識のある人々に任せておけばよい」という考え方が広まった結果、一部の人間が不平等な利益を得て、参加を遠慮した人々が不利益を被っている、というのが現在の日本社会のひとつの様相なのである。

 また当たり前の話だが、世の中で誰一人として完全な知識をもっている人などいない。完全な知識を得てから行動しようと思っていたら、自分の葬式に間に合わない。知識量の差は存在し得るとしても、誰も政治参画の条件として必要最低限の知識量を定めることはできないし、必要な知識と不必要な知識を選り分けることもできない。このような状況下で、すべての人々を同様に一人の市民としてカウントするのが民主主義のルールであり、このルールに則って日本の政治機構はデザインされている。

 さらに政治学的にいえば、仮に投票先を誤ったとしても、投票行為をした方が本人のためになる。理由を一つだけ述べると、政党や議員は投票会場を訪れた市民についてのデータを分析しているため、投票先に関わらず、投票行動をするだけで政策は変化するのである。例えば、とある選挙区において低収入層の20代独身有権者の投票率が年々上昇していることが明らかになれば、高収入層の50代既婚有権者を優先的に利する政策を支持し続けることは、再選を目指す現職議員にとってリスクとなる。したがって、代わりに低収入層の20代独身有権者を利する政策を打ち立てよう、そして次回の選挙で彼らから票を稼ごう、という話になる。

 そういうわけであるから、正しい投票や誤った投票といったことで頭を悩ませたり、知識に自信がないからといって謙虚になったりする必要は全くないのである。シンプルに、自分にわかる範囲で、自分の個人的利益に繋がる選択をすればよい。ご存知のとおり、民主主義というのは、異なる意見をもつ人々が互いの意見を表明し、話し合いを経て折衷的な政策をとる政治体制である。世代や職業が違えば、人生において求めるものも異なる。それを話し合いで、時間をたっぷりかけて解決する。民主主義の社会におけるこの基本的なルールが、一見自分勝手とも受け取られる考え方とシンプルな政治参加とを推奨していることを、日本の教科書は十分に強調しておらず、理解していない人も多い(理解していても実践できていない人はもっと多い)。この記事を読んでいる皆さんには、ルールを理解した上でゲームの進行に加わる、理性的で能動的な市民となってほしいと思う。

 

 さて、今回の記事を読んで、「やっぱり政治の話は面倒だ」と、うんざりした方もいらっしゃるだろうか。私の文章が皆さんにストレスを与えたとしたら、これは大変遺憾なことだと言わねばなるまい。実際のところ、政治という言葉から距離を置きたいという気持ちにはひどく共感する。面倒臭いことには蓋をした方が楽だし、それで生きてゆける。しかし、ものの捉え方を少々変えるだけで、政治に対して別段ストレスを感じることがなくなるのであれば、その方がよっぽどよいはずだ、と私は信じている。皆さんにそうした変化が起きることを目指してこの記事を書いた。

 自分の利益について少しだけ想像力を働かせること。これこそが民主主義の仕組みのなかで、一人の市民の政治的立場を決めるための、最優先されるべき手段である。国民全体の利益などというものをことさら考える必要はない。知識の量を気にする必要もない。政治という言葉を聞いたときにずっしりと肩にのしかかってくる重みは、本来、耐える必要のないものなのである。今後政治に関する話題を耳にしたら、<政策を判断する際に必要なのは知識ではなく、自身の利益に関するちょっとした想像力である>ということを思い出して、一見自分勝手にも思える理由でかまわないので、胸を張って賛成・反対を表明してほしいと願う。