「軍需産業」と「リベラル」をわかりやすく説明する記事。 | ヘビーメタルのその後に

ヘビーメタルのその後に

真っ白だった壁もいつしか日焼けして
絶え間なく注ぐ愛の名を永遠と呼ぶことができない

とあるフレコミを見かけた。下部に引用してある。

それを読んでの所感を書き留めておこうと思う。

ここで記述されているような現実(身の回りの人の中に軍需産業の従事が少なからず存在する)を認識することが、私に言わせれば、スタート地点。
周囲にこうした産業構造に組み込まれて日々を暮らす人々を抱えながら、一人の社会的個人として、どう現実と切結んで行くのか。自分の信念にどれだけ妥協すべきなのか。
それを考えながら、この10年来、生きてきた。

軍事産業について皆が反対だと言う前提に立っているわけではない。当然、個々人の態度は異なる。
私の態度について言えば、第一に、こうした産業があたかも軍事や環境破壊などには関わっていないかのように見せかける、その「欺瞞」を嫌悪する。したがって、少なくとも現代の日本に存在する欺瞞的な、軍需産業は嫌悪しなければならない、ということになる。

別の言い方をすれば、私は軍需産業自体を否定しているのとはちょっと違う、ということである。軍事は太古の昔から人間社会に不可欠な要素であり、その運用がなされなければ社会の維持も立ち行かないことはどうやら明白である。
しかし、帝国主義的軍事運用には心底反対である。帝国主義的軍事運用とは、自らの欲望の充足のために軍事力を行使して外部(他国あるいは他社会)に損害をもたらす行為である(と私は定義づける)。

困ったことに、現代の軍需産業はほぼ例外なくこのような意味での帝国主義的軍事運用に加担しているのである。
従って、再びではあるが、私が現代の軍需産業についての態度を表明しなければならないとなれば、このような理由によっても、反対せざるを得ないということになる。乱暴に言えば、人の者を奪って喜ぶような腐った精神を持つくらいなら、孤立無援の隠遁生活を送った方がましじゃないのか(できれば衣食住に困らず同胞と朗らかな日々を暮らせる場所で)、ということである。

私とは異なる態度、つまり現代の軍事産業を肯定する人々は周囲にちらほらいる。その中で気にかかるのは、肯定的態度をとる理由として、帝国主義的軍需産業に対する根源的な肯定ではなくて、「だってみんなやってることだから」という理由で肯定する人々である。
これは人間の感情として自然ではあるが、美しい精神とは言えない、と思う。自分の頭で考えて、自分の心で決める人が、私は好きなのである。語るための自分の言葉を持ち、共通了解に至るまで意思の疎通のための努力を惜しまない人はもっと好きである。

さて、話を元に戻すと、私は軍需産業に反対であり、周囲には軍需産業に従事する人々が少なからず存在するということである。(間接的に軍需産業を下支えする人も含めれば、その数は膨大になるだろう。私よりも厳格な線引きの仕方をする人に言わせれば、もしかすると私もその間接的な従事者に含まれるのかもしれない。)

しかしそれでも、私は友人達を好きだし、血縁者はかけがえのないものとしてとらえる、というごく社会的な感覚をもって生活を送ることを選択している。(私の生い立ちは私にそう選択することを促してきた。今後変化するのかはわからないが。)

現実の認識の程度は様々であるが、おそらく直接ここでいう軍需産業に従事する人々を除いては、その状況を認識する人々は少ないのではないだろうかと私は思っている。この場合、身の処し方というのは、これら両者にとっては割とシンプルだと思う。つまり、その内部にいる人は軍需産業を肯定し、認識の外側にいる人々は否定する、という態度をとるのではないだろうか。(明示的にせよ、そうでないにせよ。)

そうなると、問題となるのは、その認識をもちながら、その軍需産業の内部には居を構えない人々である。
その多くは、アカデミズムに存する、情報収集力のある人々であろう。
そうした人々は、(そうとは思われていないが実際にはそうである)軍需産業を嫌悪する。しかし生活のレベルにおいては、軍需産業に従事する人々とも共に暮らしていかなければならない。
さてどうする。困った困った。信念はあるが、それをいちいち表出させて嫌われ者にはなりたくない。ひとりぼっちも寂しい。



この困った状況をもっとも簡単に解決する手段がある。



それは、リベラル化することである。

つまり、人それぞれ、思想、道徳、行為の選択は自由に行うべきだというイデオロギーである。
このイデオロギーを採択すれば、あいつは違う思想をもってるけどそれはそれとして友達として好きなんだ、という言い訳を自分に言い聞かせることが可能になる。


しかし、言い添えておくと、その言い訳はおそらく表層的なものでしかない。状況が状況であれば、「あんたのおとうちゃんの仕事のせいでうちのおかあちゃんは殺されたんよ、どうしてくれるんね」という言説が顕在化することもあり得る。そうした状況で、「それはそれとして」の言説はその地位を譲り渡すことになると思う。


きっと今、私は、このリベラル化の技術を適宜使用することでどうにか上手く日々を凌いでいる。


これが今後どうなるか、わからない。
人生は楽をさせてくれない。



ーーーーー以下引用

 皆さんのお父さん、お母さん、お爺さん、御婆さん、お兄さん、お姉さん、叔父さんや伯父さん、叔母さんや伯母さん、あるいは彼氏、彼女、友人にこんな悪徳企業に勤めている人はいませんか? こんな強欲企業の株を売り買いして利札切りをしている人はいませんか? 三菱重工業、川崎重工業、三菱電機、日本電気、東芝、富士通、日産自動車、日立製作所、小松製作所、ANA全日空、伊藤忠アビエーション、JX日鉱日石、昭和シェル、石川島播磨重工業、日立造船、三井造船、新明和工業、ダイキン工業、IHIマリンユナイテッド、コスモ石油、沖電気・・・すべて人殺しの武器製造や自衛隊に寄生して利益を上げる死の商人すなわち軍需産業です。
 そしてこうした死の商人に莫大な金貸しをしているのが三菱UFJ、みずほ、三井住友、農林中金、りそななどの強欲金融資本です。三菱商事、三井物産、 伊藤忠商事 、 住友商事 、丸紅などの悪徳商社は武器輸出入で膨大な利益をあげてきた死の商人です。 基地建設など自衛隊関連施設で巨利を得てきた大手ゼネコンなど建設建築業界も強欲な軍需産業です。さらにこうしたトップ企業に連なる数千社の企業が軍需産業として利益をあげています。イージス艦一隻で二千社、戦闘機一機で千社、戦車一両で数百社が群がって利益を貪っています。

 こんな企業に家族が関わっていて、そこを不問にして、ここには触れないでニュートラルにしていてデモや抗議行動に参加している・・・なんかヘンですよね。もっとも身近なところで、戦争を準備している死の商人に加担していたり、それなりに豊かな生活の糧を軍需産業から得ている家族がいて、「見ざる・聞かざる・言わざる」ではおかしいのではないでしょうか。大企業に限りません、関連企業だったり、流通関係や広告代理店だったり、企業広告に依存したマスメディアだったりしても、軍需産業に加担してる可能性はかなりありますから。

 良いお父さん、お母さんかもしれませんよね。優しいお兄さん、お姉さんなんでしょうね。そんな家族を追及したり、批判したり、論争したりなんかできない・・・学校の授業料出してもらっているからとても話せない・・これではいくら「安倍を倒せ!憲法壊すな!」コールしていても、日常が問われていないことになりませんか。

 あるいは皆さんの通っている学校、大学の先生たちって、こんな企業から助成金や補助金なんか貰っているんじゃないでしょうか。軍需産業や原発関連企業などと共同研究なんかしてるんじゃないでしょうか。あるいは政府や官庁からばっちりお金をせしめて研究費なんか貰っているんじゃないでしょうか。政府や強欲企業を批判して「安倍を倒せ」なんて言いながら、お金はちゃっかりもらってるなんてあり得ないと思いますが、罪悪感もなく当然の権利なんて言ってるのっておかしいと思いませんか。どこか嘘がありますよね、こういう大学の先生たちって。

 音楽や美術、演劇や映画、建築やデザインなどの世界では、当然のように国や企業からお金をせびってながら、当たり前のことだと思いこんでいる人たちがごろごろいます。メセナだなんて横文字にすると格好が良いのかもしれませんが、悪徳企業のひも付きで何も言えなくされる覚せい剤中毒みたいなものです。

 これでは政府や悪徳企業に何も言えなくなりますよね。あるいは休日や夜になってデモや集会には来て「安倍を倒せ」コールしてながら、月曜から金曜あるいは日中は政府や企業の手先や使い走りになっているのっておかしいと思いませんか。「資本主義って何だ?! 強欲と搾取と抑圧と恐怖だ!」「ドロップアウトした人間なめるな!」 「非国民って決めつけられる少数派いじめるな!」

 こんな大人たちって、資金がいるからとか、研究費がかかるとか、生活があるからとか、子どもがいるからとか、ローンがあるからとか言っていても、結局政府や悪徳企業に依存して、客体として従属するか隷従しているのと違いますか。選挙で票を投じたり、戦争法に賛成した議員を落とす運動も大事です。「政治」や議会で闘う人がいても当然でしょう。数の論理、奴が敵だ、奴を倒せという論理を貫く人もたくさんいて当然です。

ーーーーー引用終わり