さて、ここで議論すべきは、この考え方に対して多くの人々が感じるであろう違和感についてである。「え、そんな自分勝手な考え方でいいの?」という疑問が浮かんだのではないだろうか。私も18歳の頃ならば、そのように躊躇していただろう。しかし、こうした一見自分勝手とも受け取られる考え方は、私たちが生きる現代日本の民主主義的政治機構を機能させるために必要不可欠であり、なおかつ日本の若者に十分浸透していない考え方である。それが、(若輩ながら)学校教育と政治学を専門に学んだ上での、現在の私の理解である。
上記の違和感の原因は、先に述べた誤謬によって説明されると考えている。問題の根本は、「政策の判断は、国民全体の利益に基づいて下さなければならない」という誤った認識が広く受け入れられていることだ。マスメディアは、大衆(私たちのこと)に対して「国益を考えよ」という論調で喋るのが常である。そして、ニュースや新聞で日本の国益についての政府見解などを聞くと、多くの人は、「ああそうなのか」とただ鵜呑みにする。自身の利益が犠牲になることでも、国全体のためなら我慢するのが"お利口さん"だと考える。当然といえば当然である。なぜならば、初等中等教育で教えられるのは主に、教科書や新聞を鵜呑みにすることであるし、バブル世代前後の親の中には、驚くほど政治に無頓着な青年時代を過ごしたせいで、政治について家庭で語る術をもっていない人も少なくないからである。
この誤った認識が広く共有されている一方で、多くの人々が決定的に認識を欠いている事実がある。それは、「国益を考えよ」というセリフを頻繁に喋る人々、すなわち議員や報道関係者こそが、典型的な個人的利益の追求者であるということである。彼らにとっての個人的利益は、選挙で当選することや、情報の消費者を維持することであって、有権者を利することや職業的理想を追求することではない。彼らが「国益を考えよ」と口にするのは、単にそれが彼らの商売の一部であるからにすぎない。
また、大衆が「国益」を考え(ようと努め)、大衆自身の利益を自らすすんで犠牲にすることよって、個人的利益を享受できる人々もいる。例えば、大衆が「国益」のために消費税の増税を受け入れることは、その他の税(法人税など)を軽減したい人々にとって直接の経済的利益、あるいは相対的・社会的利益である。したがって、彼らは個人的利益を増大するために「国益」という虚構の概念を伴う言論を支持するし、「国益のため」という大義によって偽装された政策を賛美する。もちろん、彼らは万人を利するような「国益」と呼ばれるべきものがあるなどと信じてはいない。
どんな例であれ、じっくり考えればわかることであるが、全ての人々を平等に利する政策などあり得ない。「国益」が標榜されていようがいなかろうが、全ての政策はそれぞれ、どこかの誰かに対して優先的に利益を与える仕組みとなっている。それに、国益という言葉で語られるのは多くの場合、経済的利益である。私腹を肥やすことが国家や個人の目的などと誰が決めたのだろうか。
議員や報道関係者に限らず、自分とは異なる人々の立場を具体的に想像することは容易でない。このことは、一見自分勝手な理由に基づいた政治的判断を下すことを阻んでいる。例えば、先の例に挙げた私立大学職員の立場などには考えが及ばない、という大学生は数多くいるだろう。その場合、「授業料が減ることは自分や家族にとってありがたいけれども、国庫の支出を増やすのは憚られるから我慢しよう」といったような陳腐な理由に、なんとなくなびいてしまうのである。
自分勝手な理由で政策を支持している人は、実は数多くいるのだけれども、そうした人々の存在を知らないがために、自分勝手な判断を下すことを躊躇してしまう。そしてその結果、躊躇した真面目な若者が不利益を被るという、悲劇的な状況が起きる。そこで、私がお勧めするのは、<具体的に想像できなくても、あなたとは逆の個人的利益に基づいて政策の判断をする人々が常にいることを念頭に置く>ことである。これができれば、あなたはもう立派な民主主義的市民である。