先日、はるラボメンバーのはるさんに会いに、京都に行ってきました。
お話させてもらいながら、
話題がポンポンと出てこない自分はダメだ
面白いことを言えない自分はダメだ
会話が下手な自分は、一緒にいてもつまらない人間だ。
という自分責めがわいてきました。
はるラボ的には、ここで頭の声に気がついて、「これは全部本当のことじゃない!」とするだけでいいんですけど、
せっかくなので考えてみました
まず、
話題ふれない、面白い返しできない
↓
私はつまらない人間だ
↓
話題をふろう!面白い返ししよう!
↓
出来ない。(冒頭に戻る)
というループを延々繰り返しているということに気付きました(笑)
さらに、
誰とでも次から次へと話題が出てきて面白い返しをしながら会話が出来る人って、
それこそさんまさんとか芸人さんとか、コミュニケーション力を武器にしてお金が稼げるようなレベルの人たちのことなのではなかろうか?
ということに気付きました。
なんとなく、普通レベルのコミュニケーション能力のある人はそれくらいするんだろうと思ってきたけど、
本当はかなりハイレベルなものを思い描いていたのかもしれない。
才能の上に、努力までしているような人たちを「普通」と定義して、「私も頑張ればあんなふうになれるはず…」って勘違いを起こしているだけなのかも?
じゃなかったら、世の中に、こんなにたくさんの会話の仕方やコミュニケーションの取り方の本があるはずがないですよね…
そんなことを考えていたら、
私達は楽器のようだなーと思えてきました。
主旋律を奏でて目立つバイオリンやピアノのような人がいて、
静かなチェロやコントラバス的な人もいて、
銅鑼やティンパニー的に強烈な一言を放つ人もいて、
鈴のように可愛らしくさえずる人もいて。
それぞれに固有の音があって、
それぞれに必要とされる場面があって、
それぞれに深く愛してくれる人がいる。
他の楽器のかわりなんて、出来ようもない。
だったら全然、バイオリンじゃなくていいなと思いました。
ゆっくりでも静かでも、見せ場少なめでも、
私は私の音でもって、私の旋律を奏でていればいい。
それでも愛してくれる人と関係が続いていけばいい。
なら、諦めてしまおう。
会話をするうえで良かれと思ってやっていることを、やめてしまおう。
話が不得手なんだから、もう、話すことは得意な人に任せてしまおう。
愛想笑いも、やめてしまおう。
相手の話に興味を持たなければいけないと思ってきたのも、やめよう。
そのうえで、
話したいことは話していこう。
興味がひかれることには首を突っ込んでいこう。
偏りがあってもいい。
「あの人、〇〇のことしか興味示さないよね」って言われてもいい。
むしろ、そうなれたら御の字だ。
さらに、
お互いが偏りを持って異なる旋律を奏でているのだから、
ほかの人との組み合わせで賑やかになったり静かになったり、時に無音の時間が出来たとしても、普通のことだなぁとも思いました🍀

