先日ある人と話していて私が言っていた言葉。
私はあちら側でもおかしくなかった。
あちら側ってねぇ(笑)
それはやってしまう側の立場です。
子供が小さい時は、いつ虐待をしてもおかしく無かったと思う。
若い頃も、かなり危うかったと思う。
全くそんな世界と関係ない人も居ると思うけど、私はボーダーラインの近くにいたと思う。
愛はそこら辺にたくさんあるけど、愛の質は違う。
1人が寂しくて仲間とつるんでいても、離れたら余計に寂しくなった。
それは誰かに穴を埋めてもらう為だったからだ。
寂しくて束の間の愛で明日へと繋いで、どうにか今日を凌いだ。
寂しくて見ないフリをした。
こうなった原因は漠然と自分の何かが悪いからだと思ってた。
何を見ないフリをしてきたのか。
見えないならいい。
見えないフリは闘いだ。
自分の中が、怒りと悲しみで削られていく。
平気なフリして
楽しいフリして
満たされてるフリをして
静かに壊れていく
静かに麻痺していく
ある日、気がつけば合わせ鏡にたくさん映る自分を他人みたく見つめてた。
あぁ、これはヤバい
誰かのせいにしてる場合じゃない。
この鏡の中から救い出せるのは自分だけだ。
ただ、愛されたかった。
ただ、愛されていると感じたかった。
そして赦されたかった。
愛されないまま存在してる自分を。
寂しいと泣けたら良かったね。
辛いと泣けたら良かったね。
寂しいと泣くことを赦さなったのは自分だったのにね。
泣いて泣いて疲れて寝た。
空っぽになった。
泣けて初めて、全部愛だって気づいた。
だって私達は愛そのものだから。
自分から離れてみないと分からなかったんだ。
ここにいるよ。
愛はここに有る。
自分の中に。
あちらとこちらを繋いでいくよ。
合わせ鏡の中に自分が何人いても
愛で繋がっているよ。