現生十種の益
それでは親鸞はどのように考えて第七章を語ったのでしょうか。
また何を根拠としてこの言葉を使ったのでしょうか。
親鸞の主著である『教行信証』信巻には現生十種の益があります。
これは他力信心を獲得することによって、この世で得られる利益のことです。
冥衆護持の益、 至徳具足の益、
転悪成善の益、 諸仏護念の益、
諸仏称讃の益、 心光常護の益、
心多歓喜の益、 知恩報徳の益、
常行大悲の益、 入正定聚の益
の十種を掲げています。
これは『楽邦文類』巻二の「往生西方略傳」序を、親鸞の他力的視点で簡潔に書き換えたものです。
そのことをから考えますと「天神地祇も敬伏し」は、冥衆護持の益を指しています。
これは信心の行者が諸天善神に常に護られていることをいいます。
「魔界外道も障碍することなし」は、諸仏護念の益と心光常護の益を指すのでしょう。
現生十種の益の三つの「護」である、冥衆護持、諸仏護念、心光常護の働きです。
では、神々や仏たちから護られるとはどういうことなのでしょうか。
親鸞の「一念多念文意」には、次のように「護」について説明しています。
護はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらはず、
信心ある人をばひまなくまもりたまうとなり。
まもるといふは、異学、異見のともがらにやぶられず、別解、別行のものにさへられず、
天魔、波旬にをかされず、悪鬼、悪神なやますことなし。
親鸞聖人にもそのような気配や感応があったのだとしか思えません。
これは意識的でもあり無意識な心の働きでもあったのでしょう。
「冥衆護持」とはそのような実感なのです。
このように言うと、多くの方は神社の神様とか先祖の霊とか宇宙や自然からのメッセージのことかと思われるかもしれません。
本来、宗教とは価値のないものに価値を付けて信じる事だと定義されています。
しかし、そのような煩悩にまみれ罪をつくり続ける人間の自力を介して感得された宗教のことではないのです。
釈尊も『般舟三昧経』で三宝に帰依するものは、精神世界のあらゆる活動を止めなさいと注意しています。
余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、
鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ