三つ目のパラドックス3 ~法然の言葉と唯円の聞き書き~
つまりこれによって、第一章と矛盾する第二章の「ただ念仏して」という言葉は親鸞の言葉ではない、親鸞の真意ではないということになります。
これはどういうことかといいますと次の二つが考えられると思います。
一つ目は、法然の言葉であり法然の真意であって親鸞の真意ではないということです。
もう一つは、唯円がそう聞いた、唯円にはそう聞こえたということです。
ここに二つの可能性があります。
これを検討するのはなかなか大変な作業であると思います。
一つこのような話があります。
法然の弟子に熊谷直実という有名な方がいます。
彼は武士の身分であり源平の戦いで大きな功績をあげました。
自分の息子と同じ十六歳の平敦盛の首をとったため、人を殺す仕事をする「武士」という職業を嘆き、友人から法然に会うことを勧められます。
直実は自らの後世のために命を懸け手足を切る覚悟で、刀を研いで法然のもとに趣きました。
直実は、自分は今まで多くの人を殺してきたが自分のような者でも助かるのか、と法然に聞きます。
その時に法然は「罪の軽重を知らず、ただ念仏だにも申せば往生するなり。別の様なし」と語り、その言葉を聞いた直実は号泣したといわれています。
感動する話であります。
法然の念仏について、そしてお人柄が偲ばれるお話であります。
さて、やはりここで注目したいのは、法然の「ただ念仏だに申せば」という言葉であります。
この点から法然が親鸞に語り、親鸞は法然の言葉として関東の門弟達に語り、それを唯円が親鸞の言葉として聞き書きしたのが、この第二章の「ただ念仏して」という言葉ではないかと考えられます。