三つ目のパラドックス1 ~限定の意味~
三つ目のパラドックスは「ただ念仏して阿弥陀仏に助けられなさい」という、法然の言葉であります。
ここの「ただ」という言葉が問題です。
「ただ」という言葉が「それだけ」という意味なのか、「主にそれ」という意味なのかで大分意味が異なってくるのです。
また「ただ念仏して」という主語がどこにかかるのか、ということも問題です。
ここで疑問に思うのは、もし「ただ」が念仏だけという意味であった場合、第一章の「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんと思いたつ心のをこる時、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と矛盾している可能性がでてくるのです。
第一章は「念仏して」で、「念仏だけ」とは書いていません。
先ほどの言葉でいえば、「主に念仏して」になります。それに対し第二章の「ただ念仏して」は「念仏だけして」であり、他の往生の可能性を認めていないのです。
この「ただ」という字に焦点を当てて、第二章を読むとそのように思うのですが、全体的に読むとそういう感じではありません。
これは何故かといいますと、この「ただ」という文の前に「親鸞におきては」という言葉が入るからです。
つまり「他の修行を完成することができなかったので、念仏に入ったのだ」という意味です。
「親鸞におきては」の言葉が入ることによって「念仏しかなかったので」という限定の意味が強調されるのです。
他の人は他の行でも往生は可能かもしれませんが、という意味合いにも変化しているのです。
このなんだか難しく分かりにくい文章を解明するために、親鸞、法然、唯円がどのようなニュアンスで、この言葉を語り聞きそして書いたのか、その意図を考えてみる必要があります。