歎異抄に眠れ(第二章 その⑩) | fundarikeのブログ

fundarikeのブログ

ふんだりけは白い睡蓮。
仏の道を求め、信心を決定した
妙好人のことを指して言います。
親鸞聖人の教えを
『歎異抄』から聞いていきましょう。

三つ目のパラドックス1 ~限定の意味~

 

 三つ目のパラドックスは「ただ念仏して阿弥陀仏に助けられなさい」という、法然の言葉であります。

 

ここの「ただ」という言葉が問題です。

 

「ただ」という言葉が「それだけ」という意味なのか、「主にそれ」という意味なのかで大分意味が異なってくるのです。

 

また「ただ念仏して」という主語がどこにかかるのか、ということも問題です。

 

ここで疑問に思うのは、もし「ただ」が念仏だけという意味であった場合、第一章の「弥陀の誓願(せいがん)不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんと思いたつ心のをこる時、すなはち摂取不捨(せっしゅふしゃ)利益(りやく)にあづけしめたまふなり」と矛盾している可能性がでてくるのです。

 

第一章は「念仏して」で、「念仏だけ」とは書いていません。

 

先ほどの言葉でいえば、「主に念仏して」になります。それに対し第二章の「ただ念仏して」は「念仏だけして」であり、他の往生の可能性を認めていないのです。

 

この「ただ」という字に焦点を当てて、第二章を読むとそのように思うのですが、全体的に読むとそういう感じではありません。

 

これは何故かといいますと、この「ただ」という文の前に「親鸞におきては」という言葉が入るからです。

 

つまり「他の修行を完成することができなかったので、念仏に入ったのだ」という意味です。

 

「親鸞におきては」の言葉が入ることによって「念仏しかなかったので」という限定の意味が強調されるのです。

 

他の人は他の行でも往生は可能かもしれませんが、という意味合いにも変化しているのです。

 

このなんだか難しく分かりにくい文章を解明するために、親鸞、法然、唯円がどのようなニュアンスで、この言葉を語り聞きそして書いたのか、その意図を考えてみる必要があります。