私は過去を振り返ることはあまりない。常に何かに取り憑かれている。その何かが過去ではないということは、私は私自身の奥深くに入っていく(いわゆる潜っていく)術を知らないのだろうか?私は感じる。過去の記憶は果たして本当か?私には確かに私の記憶があるが、一体それが、私にとってなんなのだろうか?現状の行動様式を作るものとしての、過去(つまり経験であり体験)を分析するのか?問題解決のためには私が私自身がどんな人間か意識することが必要であると思う。例えば、私は右手を主に使うのは何故だろう?「今から右手を使おう」などと思考して、使っているわけではない。人間はある程度のことを、いつの頃からか思考の俎上に登らせることなく、行動するようになる。これは、ある意味で、熟練であるのか?だが?これらにミスはないのか?例えば、意図というものがおる。ねらった目的に沿って、行う。しかし、意図というものは、かなりぼんやりしていたりするものだから、何をもってやるのか?私は作業ロボットになってしまうのか?それとも思考する人間でいられるのか?人として、いかなる感情もなくすことが理性的であるとするなら、私は感情をなくし、理性的なるものになったとしても、何をなすのだろうか?感情を殺し、死んでいく屍になるのか?誰もが心を知っているが?自分の心さえ知りうるのだろうか?細分化してみるとシコリがある心の正体は一体なんなのだろうか?私はうまく感情があるように振舞っているだけなのだろうか?私が感情を動かされる相手、家族、彼女。距離の近接性。近すぎるのか?遠すぎるのか?距離の近い人に対して、何かをするように要求する。それで、変えられたとしても、何か意味があるのだろうか?Aが悪いとして、Aは悪いならば、どうするか?の選択肢はかなりあるはずだ。知らないところで何が起こっているかは、私にはわからない。知りようもない。またあまりに固定した予測をすると外れたときに、修正しにくくなる。私が気持ちを大切にする人であるはずはなく。私は何者なのだろうか?私は一体、どんな行動原理で動いているロボットなのかな?