帽子をかぶった女。歩き方が、どことなく洗練されている。満ち足りた死から、いくら時間が経ったのだろう。ジドは死の直前を思い出す。ベートーベンの「田園」が、流れていた。空には一羽の雁の羽ばたく音を感じる。指を動かそうとして、くじかれる。ああ、これが死というものなんだ。納得する。妙に物哀しいわけではなく、ただあたたかな光が降りてくる。「ああ、、、ああ、、、」声がする。誰だろう。何も見えない。輝ける道が見えてくる。「お帰り」ジドは帽子の女が言ったような気がした。でも、きっと女は何も言わずに、他の誰かが出した音なのだろう。確かめる方法はないが、ジドはただ「ああ、そうか」と納得する。きっと明日は晴れであれ、雨であれ、また別の第3の道であれ、もう戻れないのだ。たくさんのものを置いてきた。荷物は膨大で、ジドが持ってこれたのは、帽子だけだったのだ。女は背を向けて、ゆっくりと去っていく。女の手が上に伸びた可能性がある。本当は、帽子を脱いだ女が見たかった。ジドは望みを理解する。女はもう点になって、地平線の向こうの一部となり、世界のどこか知ら ないところで生きる存在になる。「ありがとう」ジドの目に涙はない。ジドはしかし泣いている。渾身の力をこめて、羽ばたく。雁は群れの中を離れて、消えていく。空高く、空高く。