第40回哲学カフェin夙川開催/メモ

テーマ:
本日2018年10月21日(日)、10:00~12:00、
第40回哲学カフェin夙川を開催しました。

行楽日和の、おでかけにはいい天気にもかかわらず、
11名の方にご参加いただけました。

今日は初参加の方がいらっしゃいませんでしたので、
飲み物がそろったら、すぐに本題に入りました。

今日のテーマは
「「考えない」について考える」
でした。

よその哲学カフェでは
「考える」についてよく考えるので、
「考えない」について考えてはどうか、
と発案された方が前回いらしたので、
このテーマとなりました。

・「考えられない」という状態と比べて「考えない」は主体的に考えようとしないという点で積極性を感じるという意見。
・考えているときにはひとつのことだけ考えているので、「他のことは考えない」という状態になっているという指摘。
・考えないときには、なにかを感じているときではないか、というふうに、「感じる」とか「感覚」との関連性を指摘する意見。
・「闇が深い」ために、その闇については考えない、考えたくない人がいて、もし考えてしまうと絶望的になってしまう、と語る人の話。
・暇になると、いろんなことを考えすぎたり、怖いことを考えたりしそうなので、毎日忙しくしようとスケジュールをいっぱい入れてしまう人の話。
・考えないのは「休憩のため」ではないか、という指摘。
・俗に言う「指示待ち」の人びとこそ、なにも考えない人たちなのではないか、という不安についての話。
・AIが普及するとますます考えない人が増えるのではないか、というこれも不安について。
・組織の指示に黙々としたがって、規則を守ること以外なにも考えずにユダヤ人をガス室に送り込んでいたアドルフ・アイヒマンのエピソード。
・それとの関連でハンナ・アーレントが主張したことについて。
・そして、日本を含むいろんな国の役人もアイヒマンと同じ状況に陥っているという指摘。
・意識的にはなにも考えないようにしても、無意識・潜在意識のレベルではなにかを考えつづけているのではないか、という意見。
・考えすぎることの問題について(うつになったり強迫神経症になったり、堂々めぐりに陥っている状態など)。
・戦後日本の占領軍が使った統治の方法(日本国民に娯楽を与え、それ以外のこと、とくに政治について考えないように水路づけた、など)について。

などなど、今日もテーマに関するさまざまなことがらについて話し合えたように思います(「考える=善/考えない=悪」という前提の問い直しはできませんでした)。

次回は
2018年11月25日(日)、10:00~12:00の予定です。

テーマは
「続けるために必要なこととは?」
です。

どんなことでも続けることに意味があるとまでは言えないでしょうが、
この哲学カフェを含め、続けることに意味を見出そうとすることがらはたくさんあると思います。
世界でも「持続可能な開発」はどうすれば実現できるかが議論されています。
そんな大きなことがらでなくてもよいので、
具体的になにかを続けるためには、どんなことが必要か、について話し合えたらと思います。





第39回哲学カフェin夙川開催/メモ

テーマ:
本日2018年9月16日(日)、10:00~12:00、
第39回哲学カフェin夙川を開催しました。

2ヶ月ぶりの開催で、
忘れられているのでは
と心配しましたが、
17名の方にご参加いただけました。

前回から今日までのあいだに、
台風が2個と地震があり、
また直近の21号については
みなさんそれぞれ停電したり、
水くみがたいへんだったりして、
哲学カフェ開始前から、
被災・被害の話題で盛りあがっていました。
(「さんれも」のご主人も、
ご自宅に台風で大きな被害があり、
テレビが映ったのは一昨日だそうです。)

初参加の方が1名いらっしゃいましたので、
本哲学カフェの趣旨等を説明し、
それから今回のテーマについて話しあいました。

今回は
「分ける意味、分けない意味」
がテーマでした。
いつものように参加者全員にまず一言ずつお話しいただきましたが、
「今回のテーマの意味がよく分からない」
との指摘が複数ありました。
とくに「分けない意味」が分からない、と。

たとえば、視覚障害者が大学で授業を受けることがむずかしい時代がありました。
この世に生きている人びとは「大学の授業を受けることができる人/できない人」に分けられていて、
視覚障害者は「大学で授業を受けることができない人」のカテゴリーに振り分けられていた、ということになります。
しかし「視覚障害があっても大学で授業を受けたい、受けられるようにするべきだ」という声があがり、またさまざまな装置を活用したり、支援してくれる人員も確保されると、視覚障害者も大学の授業を受けることができるようになってきました。
つまり、視覚に障害があるかないかで大学の授業を受けられる人と受けられない人とが分けられていたのが、環境の整備によって、視覚障害の有無で人を「分ける」ことに意味がなくなってくる。逆にいうと「分けない」ことに意味が出てくる。
こういった例が「分けない意味」の意味でした。
それが当ブログの説明ではうまく伝わらなかったようで、
申し訳ありませんでした。

ただ、分かったふりをせずに、
「分からない」とはっきり述べていただけたのは
よかったと思います。

自由に発言できる機会・場として哲学カフェを運営していますので、
「分からない」も気軽に言える場でないと悲しいですから。

今日も「さんれも」のご主人から
「盛りあがってたね。」と言ってもらえるほど、
盛りあがりました。

なかでも今回のテーマの発案者の方の発言が物議を醸し、
話し合いを熱くさせたように思います。
「人間以外の生き物は棲み分けをおこなっていると学校の授業で習ったことがある。
人間も同じように棲み分けしてはいけないのだろうか?
同じ意見や考え方の人同士だけで集まり、居心地良く過ごしてはいけないのだろうか?」
そのような主旨のことを問いかけられたのです。
この問いかけをめぐってしばらく話し合いがつづきました。
その話し合いの内容は複雑すぎて全部を記憶していませんので割愛しますが、
反論していた方々に共通していたのは
「閉鎖的じゃないか」という疑問だったように思います。
じつは問いかけたご本人もうまく問いかけられていなかったようで、
閉鎖的でないこと、基本的に同じ考えだけれども違いも尊重することなどなど、
いくつか前提条件があったようです。
その前提条件を表現していなかったことを後悔されていました。

なにが言いたいか、考えがはっきりまとまっていなくても、ひとまず話し始めて、話しながら考える、ということでいいと思います。
うまく伝えられるかどうか自信はなくても、話してみる、ということでいいと思います。
もしかしたら間違っているかもと思いながらでも、話してみたいことを話してみる、ということでいいと思います。
私自身はそういう感じで話しています。
できるだけ気軽に発言できるような状況・雰囲気をつくることを最優先したいと思ってもいますので、
今日のことに懲りず、
今後もどんどん発言していただけますように。

次回は2018年10月21日(日)10:00~12:00、
場所はもちろん「洋麺亭 さんれも」にて。

テーマは
「「考えない」について考える」
です。
ほかの哲学カフェではよく「考えること」がテーマになるそうですが、
「考えない」がテーマになることはない、
との指摘があり、このテーマとなりました。




第38回哲学カフェin夙川開催/メモ

テーマ:
本日2018年7月15日(日)、
10:00~12:00、
第38回哲学カフェin夙川を開催しました。

猛暑の中、おそらく参加者が少ないだろうなと予想していました。
でも、13名もの方にご参加いただけました。
暑いにもかかわりませず、ありがとうございます。

今日のテーマは
「甘えはどこまで許されるのか、
だれか教えてください」
でした。

話し合いも、熱くなりました。
前回に引き続き、大盛り上がりでしたから。
進行役を前回と同じ方に引き受けてもらったからでしょう。

また、「甘え」がテーマでもあったからでしょうか、
「甘え」に対する厳しい意見が(和やかな雰囲気ですが)続出しました。
これまでで一番厳しい哲学カフェになってしまったかもしれません。

ここでは甘えとは「相手の行為を当てにする気持ち・期待。および、その期待にもとづく言動」といった意味合いで使いました。
「こんなことをしたり言ったりしても、相手は許してくれるだろう」という期待です。

「だれか教えてください」という姿勢自体が
甘えている!という指摘。

出世するには、うまく甘えることが大切だ、という意見。

子どもを甘やかす日本文化に対して、
赤ん坊のころからひとりで寝ることを子どもに強制する西欧文化についての指摘。

甘えが通じない状況とは、AIや機械、ルールが支配している状況か? という疑問。

「周囲に甘えるな!」という世間の目が、
最近発覚した、障害者監禁事件を生みだした一因ではないか? という問題提起。

家族が介護すると、要介護者は家族に甘えてしまうため、介護がなかなかうまくいかない傾向にあるのに対し、第三者のホームヘルパーさんが介護する場合、要介護者は甘えをストレートには出さず、ヘルパーさんへの遠慮が出てくるので、いろいろとスムーズに介護ができる。今後は甘えられる家族と甘えられないヘルパーさん、デイサービスなどをやりくりしながら介護することが大切ではないか? という示唆。

「甘え甘えられる関係」が昔から嫌で、なるべくそうならないように、明確なルールに従って生活してきたが、就労の場面などでは、上司が部下である自分に甘えてくるのが耐えがたかった、という経験。

「甘え」と聞くと「女性」を思い浮かべる人が多いかもしれないが、自分の経験上、「体育会系の男性」の方が甘えてくるし、しかも甘え上手ではないか? という経験談。

上手な甘え方というのは「腹芸(はらげい)」みたいなもので、
あまりにもケースバイケースであり、
ことばで、公式のように教えることは不可能だろう。
だから「どこまで許されるか」と問うてみても、
「ここまで」というふうに、
明確な線引きなどできないのではないか、という指摘。

ほかにも、
親子関係(とくに、母親―子ども関係)の話、
日本文化が親子関係や家族関係をひながたにしている(親分―子分関係)という話、
などなど、いつものようにここには書き切れません。

お店(洋麺亭さんれも)のエアコンがよく効いていたのでよかったですが、
みんな熱中症になりそうなぐらい、
話し合いは熱を帯びていました。

次回は
2018年9月16日(日)
10:00~12:00、
開催予定です。
小さい秋が見つけられるぐらいになっていればな、と思います。

テーマは
「分ける意味、分けない意味」
です。
人間は世の中のあらゆるものごとを分け、区別し、分類します。
「性別にこだわらないファッション」がヒットしたりして、
従来の分け方の見直しが、いろんな領域でおこなわれています。
一方、これは分けた方がいいのでは? と思うことがらが、
分けられていなかったり、
分けることで「棲み分け」ができて、
うまくいくケースもあるようです。

意味のある分け方、
意味のないわけ方、
あえて分けることなく、
ごちゃまぜにすることの意義、
などなど、
「分ける」について話し合えたらと思います。

場所はいつもの
阪急夙川駅前「洋麺亭さんれも」です。