誰のためのお世話なのか。
*最下段に補足しました。(2020/7/12)
先日、知人の愛犬が虹の橋へ旅立ってから半年ぶりに会ってきた。
平均寿命を遥かに超えた、19歳のミニチュアダックス。
先日、知人の愛犬が虹の橋へ旅立ってから半年ぶりに会ってきた。
平均寿命を遥かに超えた、19歳のミニチュアダックス。
旅立ちの当日に連絡をもらってましたが、直接話しをするのは昨年12月以来。
もちろん、話した内容はお世話や介護など当時の話ではなく、
ただただ込み上げてくる怒りや自己嫌悪など、今の心境を少しだけ。
心肺停止や緊急手術など、高齢や持病によって死線を彷徨った事も多々あり、
何処へ行くのも一緒で、片時も目を離せない存在でした。
何処へ行くのも一緒で、片時も目を離せない存在でした。
オロゴンの糖尿病、恐らく糖尿病の一般的な治療方法からはちょっと外れているハズ。
食べたい欲求はギリギリまで優先させてるし、療法食オンリーではないです。
日々のお世話から最期の看取りまで、向き合い方って色々ありますよね。
特に病気のお世話がピークに差し掛かってきた時、
気が付くと“自分のため”のお世話になってしまってる事もあるんですよね。
これがまた厄介で、自分で気付くのはなかなか難しい。
日々のお世話から最期の看取りまで、向き合い方って色々ありますよね。
特に病気のお世話がピークに差し掛かってきた時、
気が付くと“自分のため”のお世話になってしまってる事もあるんですよね。
これがまた厄介で、自分で気付くのはなかなか難しい。
最初は出来る事や選択肢が沢山あって、あれこれ色々考えて納得するんです。
でも、出来る事が減り、選択肢が絞られてくると・・・
それでも以前と同じように、同じ事を求めてしまう。
病気が進行してくると特に見えなくなってくるんですよね。
本来の目的が見えなくなります。
本来の目的が見えなくなります。
必死になりすぎて、お薬も、御飯も、全てが本来の目的からズレてしまう。
ピークを超えてからも同じ事を求めすぎるとお互いに辛ですよね。
なぜ今までそのお薬や御飯が必要だったのか?
状況が変わった今、そのお薬や御飯より優先する事は?
病気が分かった時、進行を遅らせるための治療をするのは当然で、
少しでも楽になるために、出来るだけご機嫌に過ごせるために、全力をつくす。
それもやりすぎたらダメなんですよね。
「明日」とか「将来」とか、今後に対する観念や欲求がない動物達にとって、
「明日」とか「将来」とか、今後に対する観念や欲求がない動物達にとって、
「今」がどれだけ満たされているかが重要なんだと思います。
以前の記事にも書きましたが、世話人にとって一番必要なこと。
“決断する勇気と優しさ”
“決断する勇気と優しさ”
そのために必要な、“誰のため?”っていう根本を忘れんようにせなアカンね。
今この瞬間を、どれだけ満足しているかを考えないとね。
僕はついつい必死になってヤリすぎてしまうので、
こうやって、たまぁ~に自問自答することが必要なんです。
覚書としてのひとり言の長文、大変失礼しました。
* 補足
やり過ぎたらダメっていうのは、可哀想だからヤメるとか、諦めるとかじゃないです。
療法食を食べなくなったら、拘らずに食べてくれるモノを探せばいい。
自分で食べられなくなったら、強制給仕してみればいい。
ただ、それらがどこまで必要かを見極めないと苦痛だけが残ってしまう。
必要なことを最低限行うことで復活することもあれば、
欲張ってやり過ぎるとますます悪化する事も。
末期でない限り、知恵を絞れば何かいい方法が見つかるハズです。
“best”でなくても“better”を探す。
それが結果的に“best”になることも。
それにはある程度の知識が必要なんですが、
その知識に振り回されると、自己満足という“自分のためのお世話”になってしまう。
知識の使いどころって難しいですね。
『頑張らせない「時」がきたときに、判断を逃さないための知識』を身に着けたいです。
必死になってしまった時、ふと思い出して立ち止まって考えられればって思ってます。
でも現実はそんなに簡単ではなく、いつも悔しい思いが残ります。