見えている悪は、それほど悪ではない。
虚構は、一見、悪に見えることはない。
騙されているうちは、何かを与えてくれる善い人、良い物に見えるだろう。
他人からは、心は見えないのだ。
虚構の芸術性がより長けている者が、この世では奨励されているのは誰もが知っていることだ。
どんな芸術であれ、権威が作られる場合、それによる支配、偶像崇拝という支配を作っている、それは支配欲で悪だ。
見える悪、たとえば殺人。それを犯す心は、殺した相手が、殺したいと思わせた本人であり、それで納得がいくのなら、心は大した悪ではない。
嫌な想いをしたからと、その本人ではなく、別の第三者に腹いせを行う行為は悪だ。その人には勝てないからと、自分より弱いものを虐待してはならない。支配欲と虚栄心を満たすための悪は心が酷く穢れる。
私は自分を支配しようとする者、特に男性には強くなる。見えない暴力で支配しようとする想いが見えるからだ。
その支配欲、暴力性という悪に勝つには、悪を叩く精神性の強さが必要なのだ。
この世の法には引っ掛かることはない、誹りに見えない、言葉の暴力がある。
善で覆っているもの、美しさで覆っていればいるほど、それが巧みなほど、裏にある欲望が心を悪にする。
その嫌がらせを受けている人は、そこに誹りの言葉がないから、訴えることも出来ない。やめて欲しいとも言えないのだ。
それらは見えないが、心には大きな悪として溜まっている。
見えなければ、法に触れなければ、訴えられるような言葉を使わなければ、何をしてもいい。悪とはならないと思っているようだ。
残念ながら、お天道様は心の邪悪を見抜いている。
善悪は法ではないのだ。心だ。