ある日
突然子供が学校に
行けなくなりました。
実はこの話は私の娘の話です。
小学5年生の春のことです。
長女はとっても活発で
明るい子供でした
しかし
娘はある日を境に
学校に行けなくなりました。
この時学校にいけない理由は
分かっていました。
それは「いじめ」です。
4年生まで通学していた学校から
転校し
娘は小学5年生から
新しい学校に転入
始めはお友達も出来て
楽しそうにしていましたが
勉強の進め方が…
前の学校と違いが
沢山あり
娘は
学力に追い付いてい行けず
私が気が付いたころには
お友達との関係はゆっくりと
仲間外れという
「いじめ」に変わっていきました。
ある日の朝。
顔色が悪い娘が
「学校に行きたくない」と
小さな体を震わせながら
話をしてきました。
目は活気がなく
私は一言
「今日はお休みしようか」と
娘に語り掛け...
学校に連絡しました。
しかし娘と私の戦いは
この日から始まりました
娘が精神的に
元気になるのではないかと言う
予想をはるかに超え
日々
娘の精神状態は
悪化していきました。
精神的な症状が毎日増え
気が付くと自分の髪を抜いたり
数回にわたるリストカットで
何度も救急車を読んだり
その内
低体温になり...
体はいつも冷たく
声も活気がなくなりました。
寝てる姿は...
小学生の姿ではなかった
今でも覚えています。
娘は目に涙を浮かべ
私に「ごめんなさい」と
泣きながらいつも
言っていました。
謝る娘に
私は何も出来ませんでした。
只々
いつも一緒に居てあげることだけが
精一杯でした。
学校にも相談しました。
スクールカウンセラーの方にも
教育委員会にも
相談しました。
でも
真面目に受け入れてくれた
場所はなかった。
あえて一ヶ所あったのは
子供の精神科です。
娘と言うより
私の話を聴いてくれたことで
私の心が
軽くなった事を鮮明に
今でも覚えています。
結局娘は
小学5年生6年生は不登校。
そして
中学は新しい制服を着て
入学式には参加しましたが
次の日から
赤ちゃん返りをしてしまい
制服を着ることはなかった。
それから3年間は
学校には行けず・・・
卒業式は校長室で
娘だけの
卒業式迎え卒業証書を
受け取りました。
中学校の
校長先生には感謝致します
娘の中学生活は
家で好きなことをしていました。
私は離婚していましたので
子供達には父親がおらず
私自身も娘の気持ちだけを
大切にしてきました。
娘は小中学校には
行けなかったけど
家族で映画やドライブにいき
実家(大分県)などには
良く連れて帰ってました。
小学校5年から中学校まで
不登校になっていた娘でしたが
有ることから整体師の仕事に
興味を持ち始めました。
常に本屋にいき
解剖学や神経の話を夢中で
私にするようになりました。
私は仕事から帰ったらいつも
娘の趣味に付き合わされました
この時期から整体師になるために
高校に行きたいと
話が出てくることも良くありました。
結果的には
娘は寝屋川の定時制高校に入学
4年間アルバイトとしながら
上位の成績で卒業しました。
娘の夢は整体師になって
「人の役に立つ人になりたい」と
ずっとずっと
言っていましたが
結局は
高校を卒業後はアルバイトをはじめ
そこで知り合った男性と結婚
いまでは
仕事帰りの旦那さんの
専属マッサージ師に
なっているようです。
ちなみに子供二人にも
恵まれ今ではスーパーで
元気よく仕事をしてます。
あの地獄のような
娘の
不登校の話が
出来るようになったのは
私の中で
一つの辛かった気持ちから
解放されたからでしょうか?
ある意味
これから先は
不登校になってしまった
お子さんや親御さんの
力に慣れるのではないかと
昨年から
不登校支援カウンセラーの仕事を
はじめました。
子どもが「学校に行かなくなった」のではなく
「子供が学校に行けなくなった」
その理由は違うかもしれません。
しかし
寄り添い方を間違はなかったら
子供は自分の道に必ず帰ってきます。
貴方が
もし今子供の不登校に悩んでいたら
一人だけの
固定された考えだけで子供を見ないで
専門の方に
話を聴いてもらうことをお勧めします。
私の場合は
子供の精神科の先生に救われました。
必ず解決策はあります。
焦らなくても
大丈夫です
しかし
長く待っても時間だけだ
過ぎていきます。
いま
自分に何が出来るかの答えは
必ずあります。
不登校とは
何故学校に行けなくなったのか?
子供すらわかってないことが
良くあります。