旅行記本編はコチラから。

 
 
 4/7(日)の更新をもって本編完結した「双葉・石巻 13年目の現実」の終章(総括)を書かせて頂きます!
 
 まずは体調不良などのトラブル、大きな事故なく旅を終えることができた。寒さに関しては、今年(2024年)は暖冬傾向だったこともあり、外を歩くのは苦にならない気候だった。
 
 今回の旅行記では、旅のタイトルを従来の「○○の旅」とは違うものにしたり、「旅行1日目」「2日目」の区切りを撤廃したりと、これまでの旅行記とは違う試み(?)を取り入れた。また、旅行記に入る前の「序章」と総括編である「終章」にもサブタイトルを入れるようにした。今回の旅行記はサブタイトルを考えるのに苦労したが、「どんなサブタイトルにしたら多くの人に読んでもらえるだろうか?」と考え甲斐があった。しかし連載期間が非常に長くなり、いつ終わるのか見通しが立ちにくいところもあったが…。連載期間が長過ぎて「いつ終わるの?」と思われた読者の皆様にはお詫び申し上げますm(_ _)m
 
 旅行全体の大きな反省点は特にないが、これから双葉・石巻を訪れる方々にアドバイスしておきたいのが、外を歩く際は天候に十分気を付けて欲しいことと、食料品等の事前調達が必須であることだ。双葉は震災から10年以上が経つ今でも「あの日」のまま時が止まっている建物が沢山あり、その雰囲気をぜひ「歩いて」感じて欲しいが、夏場は熱中症のリスクがあるし、冬場は寒さで体調を崩してしまうリスクがある。双葉駅から東日本大震災・原子力災害伝承館まではシャトルバスが出ているが、そのバスも30分~1時間に1本程度の本数である。

 また、双葉町は長らく帰還困難区域に指定されていた影響もあり、自動販売機や商店が存在しない。あるのは伝承館隣接の「双葉町産業交流センター」にあるファミリーマートのみである。一方、石巻は石巻駅前にはイオンやNewDaysがあり、買い物にはそこまで困らないが、門脇・南浜地区には商店や自動販売機が存在しない。体調不良などのトラブルがあっても対応できる機関が非常に限られてしまうため、いずれにしても無理のない計画を立てるようにして欲しい。
 
 
 そしてここからは双葉・石巻を訪れての感想と、東日本大震災から13年を迎えての私の思いを書いていく。
 
 「帰還困難区域の『今』を見たい」という思いから始まった旅であったが、双葉は震災から13年が経つ今でも「あの日」のまま放置された建物が数多く存在することに驚いた。最近ではVlog(Video Blogのこと)で現地の雰囲気を感じられるものが増え、実際に双葉郡や他の被災地を旅した人の動画がYoutubeに上がっているが、現地に行ってみないと分からないことは沢山ある。

 これまでに訪問した宮城や岩手の被災地では、甚大な被害を受けながらも、「人の手」が加えられて新たな商業施設や震災伝承施設ができているところが多かったが、双葉は10年近く「帰還困難区域」に指定され、人の立ち入りが許されなかった。2020年3月にようやく一部区域で避難指示が解除され、2022年8月には人が居住できるようになったものの、10年も経つとすでに避難先で生活基盤ができてしまっているうえ、生活に必要な施設が全く機能していないという現状がある。そう考えると「人」あっての復興だし、どんなに大好きな故郷であっても「生活できない」「戻れない」という結論に至ってしまうのも無理もないのだろう。
 
 「序章」でも書いたが、私は東日本大震災というと地震と津波のインパクトがあまりにも大きすぎて、その後の原発事故のことに関しては全く頭に入ってこなかった。「放射線量があまりにも高くて、未だに故郷に帰れない人がいる」ということはぼんやりと知っていたが、それによってどのような影響があるかということは全く知らなかった。しかし、東日本大震災・原子力災害伝承館の展示を見て、原発事故の実態だけでなく、福島県浜通り地方の歴史、原発によって人々の生活が豊かになったこと、リスクがあると知りながらも、その豊かになった暮らしを捨てられなかったという事実を知ることができた。
 

 一方、石巻は今回の旅行で3回目の訪問となったが、門脇小学校では津波火災の被害を受けなかった校舎があることなど、今回訪れて初めて知った事実もあった。また、門脇小学校は当時在籍していた児童・教職員・地域住民等による証言が多数紹介されているが、自分が生まれ育った土地をどのように認識しているかで「防災」に対する意識が大きく異なってくることを痛感した。門脇小学校では「奇跡的に」在校していた児童全員が難を逃れたが、それは「海が近い=津波のリスクが極めて高い」ことを誰もが認識していたからであった。だからこそ「すぐに逃げる」という行動を取れたし、どこに避難すれば良いかも分かっていた。門脇小の児童や教職員にとって「逃げる」ことは「当たり前」のことだったのだ。

 門脇小学校の件を書いていてふと思い出したのが、「釜石の奇跡」という言葉が使われなくなり、「釜石の出来事」に改められたことだ。同じく東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県釜石市では、当時、およそ人口4万人のうち1,000人を超える死者・行方不明者が出たが、小中学生の99.8%が無事だったことから、「釜石の奇跡」と呼ばれた。しかし、釜石の小中学生のほとんどが助かったのは、「とにかく逃げる」という「当たり前」のことを誰もが実践していたからだった。これが「釜石の出来事」に改められた理由のひとつだと言われている。


 今回の旅全体を通して思ったのは、「事実を正しく把握・検証することの大切さ」と、結果の良し悪しに関わらず「『考えること』をやめてはいけない」ということだ。東日本大震災に限らず、何か事件や事故が起きるとすぐに「原因」や「責任」を探したがる。その結果、「なぜそうなったのか」という検証がなされず、臭いものには蓋をするという対応になる。結果、教訓が活かされず、同じ過ちが繰り返されてしまうのだ。

 東日本大震災の話題から外れるが、「事実の把握・検証」が大切だと思ったきっかけのひとつに、学校の給食で提供された「うずらの卵」を喉に詰まらせ、小学生の男児が亡くなるという案件があった。再発防止策として、「当面、うずらの卵を使用しない」というものが挙がったという。
 この件について、ブロ友さんは「何でもかんでも現場の先生の責任にして、隅々まで目が届かなくなっている気がする。(うずらの卵に限らず)よく噛んで食べるべきだけど、それは家庭の教育じゃないかなぁ」と発言していた。私も同感で、どんなに気を付けていても事故は起きてしまうし、まずは事実を正しく把握し、検証して欲しいと感じた。(給食の件に関しては私自身でも思うことがあるため、またブログ記事で書こうと思います)

 東日本大震災関連の事案でも同様で、「過失」「責任」を問うものが多かった。原発事故もそうだが、学校管理下にありながら多くの児童が犠牲となった石巻市立大川小学校の事案は裁判にもなった。震災により平穏な生活、愛する家族を奪われた悲しみや怒りが裁判に繋がるという気持ちはよく分かるが、「過失」や「責任」ばかりがクローズアップされ、肝心の「背景」や「歴史」に触れられることが少ないように感じる。

 事故を起こしたくて原発を誘致したわけではない。その裏には日本のエネルギー事情や地元(福島県浜通り地方)の雇用問題があった。今回の旅行では訪れていないが、大川小学校の件も、学校や先生が全て悪いわけではなく、子ども達を死なせたくて死なせてしまったわけではない。余震や降雪によるリスクが予想される中で、一度に大勢の子どもを避難させることのリスクがあったうえ、土地柄、他に安全に避難できる場所もなかった。これらの事実はテレビで報道されることがなく、私が現地に行って感じたことだ。

 ただ、犠牲者が出なかった地域や施設で、「犠牲者が出なかったそれでいいよね!」で終わらせてしまうのも違うと感じる。門脇小学校がその例だが、何が功を奏したのか、今後の防災にどのように活かしていくかを考えていく必要がある。この地球上で生きている限り、天災から逃れることはできない。何もかもを破壊してしまう自然災害から助かるには、「逃げる」ことしかない。ただ逃げるだけでなく、どのように逃げるか、どこに逃げれば安全なのかも併せて考えていけると良いだろう。


 これまでに5回、震災慰霊の旅をしてきたが、命ある限り、慰霊の旅を続けていきたい。「仙台市立荒浜小学校」の見学や「大船渡温泉」への宿泊、「南三陸ホテル観洋」の再訪もしたい。一度行っただけでは分からないことも多いため、複数回訪問し、変わりゆく被災地の現状を見続けていきたいと思う。

 東日本大震災から13年、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
 そして、震災の記憶と教訓がいつまでも語り継がれていくことを願います。


 以上を持ちまして、「双葉・石巻 13年目の現実」シリーズは完結となります。お読み頂きありがとうございました!