※被災物の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。

 

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 「門脇小学校の思い出」を見たあとも引き続き、順路に沿って見学していく。被災物は前回(2023年1月末)の旅行でじっくり見たため、今回の旅行では被災者の証言や校舎内部の写真などを中心に見ることにした。
 
 今は立ち入ることのできない校舎内部の写真が展示されていた。下の写真は校舎2階にあった1年生の教室で、津波も津波火災の被害も受けなかったという。津波火災で丸焦げになってしまった教室と違い、「色」「当時の面影」が残っているのは非常に大きい。門脇小学校というと、校舎全てが津波火災の被害を受けたと思っていたが、被害を受けずに済んだ教室があることは初めて知った。やはり1回訪れただけでは分からないことがある。
 
 中央昇降口にあったグラスアートの写真も展示されていた。津波火災の影響なのか、グニャリと曲がっていた。
 
 門脇小学校の室内展示の内容は非常に幅広く、被害状況や被災者の証言、石巻の地形や地理、地質など多岐にわたる。文系、理系それぞれの視点からのアプローチ方法はあるということだ。リベラルアーツとはこのことを言うのだろう。
 石巻市を流れる河川について説明されていたが、川を遡って海から離れた場所にも津波が襲来したことも被害拡大の要因となった。河北地区にある大川小学校は、河口から4kmほど離れており、海は直接見えないが、北上川を遡上してきた津波により多数の犠牲が出てしまった。雄勝タクシーの運転手さんが「津波が川を遡ってくるとは思ってなかった」と何度も仰っていたのを思い出す。
 
 下の写真の展示では、北上川のことを「母なる河」と表現していた。石巻をはじめ、三陸沿岸地域というと「海」のイメージがあるが、石巻は海だけでなく川からも沢山の恩恵を受けている。
 石巻の代表的なお祭りのひとつに「石巻川開き祭り」があるが、これは北上川の治水で石巻の街を救った川村孫兵衛重吉に対する報恩感謝の思いが原点にある。江戸時代、北上川は大雨のたびに洪水が起こっていたため、仙台平野北部は米づくりに適さない土地であったが、川村孫兵衛重吉による河川改修により、仙台平野北部の新田開発が急速に進んだ。また、川村孫兵衛重吉は河川改修工事と同時に石巻港の築港工事も行い、水上交通の整備にも努めた。その結果、河川を使った人や物資の運搬が盛んになり、現地で収穫された米が石巻港に集められ、江戸に送られた。
 
 前述の経緯から、石巻では川と人との距離が近い暮らしが続けられてきたため、人口10万人以上の都市では珍しく、河口部の市街地付近に堤防がない。これが被害拡大の要因となってしまった。また、石巻市の津波浸水面積は、東日本大震災の全浸水面積の13%にあたる73km²に達し、東日本大震災で被災した市町村の中では最大となっている。
 
 その後は期間限定展示のブルーインパルスの写真展を見学し、最後に体育館に戻って応急仮設住宅を見学した。全ての展示を見学したあとは、売店で門脇小学校の図録を1冊購入した。この図録は2024年1月18日に発売されたとのことで、私が勤めている放課後等デイサービスに通う生徒達に読んでもらえたら…との思いで購入した。引っ越しなどで紙の書籍はかなり処分し、電子書籍に移行したが、震災関連の写真集や絵本は「紙」のものを買うのにこだわっている。私には子どもはいないが、次世代に震災の記憶を語り継いでいきたいからだ。
 
 更新まで間が空いてしまいすみませんでした💦次回からは震災伝承施設「MEET門脇」を見学したときのことについて書いていきます!
 それでは次回に続きます!