前後の記事はコチラから。

 
 津波火災で焼けてしまった校舎を見学したあとは特別校舎棟に入り、「門脇小学校の思い出」が展示されている部屋に入った。昨年(2023年)の旅行では門脇小学校の校歌や当時の児童達が描いたポスターなどを見たが、今回の旅行では「門脇小学校と防災」に関する展示を中心に見た。児童と教職員の証言をもとに、門脇小学校の歴史と立地、そして避難訓練や防災についての私の考えを書いていくことにする。
 
※2023年の門脇小学校訪問時の記事はコチラからご覧下さい。

 門脇小学校は太平洋に面した小学校だ。そして、三陸沿岸は東日本大震災以前にも繰り返し津波被害を受けてきた経緯がある。そのため、門脇小学校では「地震が来たら津波が来る」という想定のもと、学校から日和山公園まで避難する実践的な訓練を積み重ねてきた。訓練では6年生を先頭に下級生が続いて避難していき、6年生が避難完了を報告するというもので、「子ども達」にとっても実践的な内容になっていた。東日本大震災発生の数年前からは保護者も参加する「引き渡し訓練」も始められた。

 

 

門脇小学校は海に近いということもあったので

必ず津波までを想定して

今で言う(石巻市立)桜坂高校のところまで

階段を上っていくという事は実施していた。(教職員)

 

指示聞こえなかったら死ぬよ!とか

命にかかわるよね。

というのを教わっていた。(児童)

 

地震を想定した避難訓練、

これは地震から津波っていう流れなので

地震と津波を想定してセットになっているんですね。

地震津波想定、それから火災の避難訓練、

あと引き渡し訓練。それぞれ年1回ずつ。(教職員)

 

 また、「縦割り活動」という異学年交流があったのも大きな特徴のひとつであり、上級生が下級生の児童の面倒を見るという訓練になっていたそうだ。思えば私が通っていた小学校でも「縦割り活動」があり、異学年交流の機会があったが、異学年との交流があったのは縦割り活動と登校班のときくらいで、休み時間は結局同じクラスの友達と遊んでいたような記憶がある。

 

教師側が一方的に作っていくわけではなく、

子どもたちが考えながら作っていくという取り組み。

子どもたちが自分で考え、工夫して

活動を実施していくかたち。(教職員)

 

たて割り活動は授業前に行われる活動で約20分位、

月に2回とか3回とか、上の子が下の子の面倒を見るという

訓練になっていた。(教職員)

 

たて割り活動で日和山に登ることを知っていた。

それがあるから親も(子どもたちは)震災の時には

日和山に登ったんだなと思っていた。(保護者)

 

 

 門脇小学校の展示は津波火災で焼けてしまった実際の校舎が残っているのも大きな特徴のひとつだが、当時在籍していた児童とその保護者、教職員、地域住民による証言が豊富なのも大きな特徴である。

 

 「門脇小学校と防災」の展示を見ていて感じたのは、「自分が生まれ育った土地をどのように認識しているかによって、人々の防災意識が大きく異なってくる」ということだった。私は2023年1月末の旅行で石巻市立大川小学校と門脇小学校を見学しているが、大川小学校では全校児童108人中74人が犠牲になってしまったのに対し、門脇小学校では在校していた児童240人が難を逃れた。同じ「石巻市立」の学校でここまで対象的な結果になった理由として、同じ「石巻市」でも地形や街の成り立ち方が異なること、それによって人々の防災意識が大きく異なることにあった。


 大川小学校は北上川のすぐそばにあり、海抜1mほどであるが、河口からは4kmほど離れており、学校から直接海は見えない。亡くなった児童の遺族が起こした裁判では、「学校近くの裏山に避難させていれば子どもたちは助かっていたはずだ」ということが争点になったが、震災当日は降雪や余震のリスクから裏山への避難を即決できなかった。また、余震などのリスクがある中、児童と教職員、地域住民100人以上が一斉に避難するのも「群衆雪崩」などのリスクがある。それに加えて、「(川を遡って)ここまで津波が来ることはないだろう」という思い込みが避難を遅らせ、多数の犠牲を生んでしまった。


 それに対し、門脇小学校では、児童も教職員も「海に近い」という立地を理解し、地震と津波をセットにした訓練を行っていた。何もかもを破壊してしまう自然災害から助かるには「逃げる」ことしか方法はない。そのため、避難場所である日和山公園まで「実際に」行っていた。また、縦割り活動を通し、教職員が近くにいなかったり、すぐに駆けつけられない場合でも、子どもたち同士で助け合い、自ら動けるようにしていた。机上の理論と、実際に身体を動かして行動しているのとでは全然違う。こうした活動の積み重ねと、学校近くに避難場所(日和山公園)があったことが、在校児童全員の無事に繋がった。



 話は変わるが、実家の家族とLINEビデオ通話をしているときに、父から「東日本大震災が起きたとき、避難訓練でやっていることが全く役に立たなかった」という話があった。父はかつて神奈川県内にある某企業に勤めていたのだが、東日本大震災が起きたとき、社員は大きな揺れにただオロオロするばかりで、避難訓練でやってきたことは何もできなかったという。「避難訓練でやってきたことが実際の災害では役に立たなかった」という視点は良い意味で衝撃を受けた。


 いつだったかは忘れたが、「株式会社防災小町」のサイトで、「学校の訓練は間違いだらけ?」というコラム記事を見つけた。 日本全国のほとんどの学校で防災訓練が行われているが、中には必ずしも正しいとは言えないことを教えていたり、必要のないことに力を入れていたりする学校もあるという。


 この記事で取り上げられていた訓練のやり方のひとつに「避難にかかった時間を測る」というものがあったが、これは全く意味をなさないという。本当に大事なことは「全員が無事に避難する」ということだそうだ。思えば、私がかつて通っていた小中学校・高校では毎回のように避難にかかった時間が発表されていた。

 「全員が無事に避難する」で思い出したのが、「全員揃っているか確認してから避難する」というやり方があったことだ。思えば学校の避難訓練でも、一度は全員校庭に出てクラスごとに集まるよう促されたような記憶がある。しかし、東日本大震災では地震発生から大津波襲来までのタイムラグが短く、全員が揃っているのを確認してからの避難では間に合わない可能性もあった。実際、宮城県南三陸町の戸倉小学校では震災当日、校庭への避難や点呼も省略して高台の神社に避難したことにより、児童全員が難を逃れている。

 まとまりのない文章になってしまったが、地震が起きたらまず「自分の身を守る」こと、そして安全な場所に一刻も早く「逃げる」こと、これに尽きるのではないだろうか。これまでのブログ記事でも書いているが、何もかもを破壊してしまう自然災害から助かるには「逃げる」ことしか方法はないのだ。


 そして今まで書いてきた文章を踏まえて、私が勤める放課後等デイサービスに通う生徒に伝えたいことは、「危なくなる前に私達(スタッフ)も逃げるから、みんなも一緒に逃げて欲しい」ということだ。「逃げる」ということは簡単なようで、実はすごく難しい。どんなに楽しく遊んでいても、災害が起きたら今やっていることを全て中断して身を守り、逃げなければいけない。しかし、行動の切り替えが難しい児童生徒だと、避難行動を取ることすら難しいこともあるのだ。

 私達スタッフもできる限りのことはするが、やはり「命がある」ということが大前提となる。スタッフの命が危ない状況となれば、児童生徒を助けることはできない。だからこそ、子どもたち自身にも「自分の身は自分で守る」こと、「スタッフ(支援者)と一緒にすぐ逃げる」ことができるようになっておく必要がある。支援者や救助者も危機が迫れば「逃げる」からだ。


 日付が変わってしまったが、2023年3月11日は東日本大震災から13年の命日である。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、今も行方不明の方々が無事、ご家族のもとへ帰れることを願います。

 それでは次回に続きます。