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 急坂を歩いてようやく日和山公園に着いた。下の写真は2022年の旅行で撮影したものだが、ロボコンや仮面ライダーなど、石ノ森章太郎先生が生み出したキャラクターが日和山公園を案内している。

 

 標高60mほどの日和山公園からは太平洋が見渡せる。2022年の旅行でも同じアングルで写真を撮ったが、今回の旅行でも写真を撮った。雲の間から差し込む太陽の光が良い。しかし、眼下に広がる太平洋が牙をむき、多くの人の命を奪ったとはとても思えなかった。

 

 アングルを変えてパチリ。やはり青い海は美しい。

 

 日和山公園には震災前の石巻の写真も掲示されている。震災前は海沿いまで住宅が建ち並んでいたが、津波で全て流されてしまい、当時の面影は全く残っていない。

 

 日和山公園の眼下に広がる門脇・南浜地区についての説明書きがある。元々は農地だったというが、工場ができたことから急速に市街化が進み、人口も増えた。沢山の人家だけでなく、病院や文化センターなどの公共施設もあったという。しかし、東日本大震災による津波と津波火災で甚大な被害を受け、「非可住区域」(災害危険区域)に指定された。現在は「石巻南浜津波復興祈念公園」として整備されている。

 

 日和山公園には「鹿島御児(かしまみこ)神社」があり、職業繁栄、安産、交通安全などのご利益がある。この大鳥居は2021年12月に再建されたものだ。

 再建される前の大鳥居は1935年(昭和10年)に建立されたものであったが、度重なる地震や経年劣化により倒壊するおそれがあったことから、2021年5月に解体された。しかし、市民などから「(大鳥居は)石巻のシンボルだから必ず再建して欲しい」といった声が多く、クラウドファンディングなどを通じて支援を呼びかけ、再建された。

 

 2022年の旅行では見ることのできなかった景色も見てみた。日和山公園からは太平洋側だけでなく、旧北上川方面の景色も見られる。黄色い丸で囲ってある建物は石ノ森萬画館だ。

 

 旧北上川方面にも、震災前の石巻の風景の写真が掲示されていた。どちらの写真でも、川沿いまでびっしり家が建ち並んでいたことが分かる。また、石ノ森萬画館がある中瀬地区にも家が建っていたことが分かる。しかし、現在の風景と比べてみると、川沿いには堤防ができており、建物が少なくなったように思える。また、中瀬地区には石ノ森萬画館以外、何も建物が建っていなかった。

 

 旧北上川・中瀬地区についての説明書きもあったので、読んでみた。1689年に松尾芭蕉が石巻を訪れたことがあったようで、「奥の細道」で当時の石巻の繁栄の様子について記している。古来から船運の基地として栄えてきたようだ。しかし、東日本大震災が起きたときは、旧北上川を遡上してきた津波により壊滅的な被害を受けた。

 

 日和山公園は著名人も沢山訪れており、あちこちに歌碑などがある。これは石川啄木が詠んだ短歌で、「砕けては またかへしくる大波の ゆくらゆくらに 胸おどる洋」とある。太平洋の寄せては返す波の様子を詠んだのだろう。石川啄木は1902年(明治35年)5月末に盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高校)の修学旅行で石巻を訪れ、そのときに詠んだという。

 

 日和山公園を一通り散策したあとは、階段を降り、次の目的地である門脇地区へと足を運んだ。階段を降りると、「高台避難場所」と書かれた看板が見えた。(赤い丸で囲ってあるものです)

 

 日和山公園は今回の旅行で2回目の訪問であったが、それでもまだ見られていない箇所があるほど広い。時期的に難しいかもしれないが、いつかは桜の花が咲き誇る季節に訪れたいと思う。

 

 それでは次回に続きます!