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 東日本大震災と原発事故の時系列での展示を見たあとは、東日本大震災・原子力災害伝承館のメインとなる展示を順路に沿って見ていく。メインの展示は5つのセクションに分かれており、最初のセクションは「災害の始まり」だった。震災前の町の様子や、東電の存在が地元にとってどれだけ大きなものだったかがよく分かった。
 
 展示内容に関しては東日本大震災・原子力災害伝承館の公式ページも併せてご覧になって下さい。

 

 最初に、双葉町をはじめとする双葉郡(相双地域)の文化や産業について紹介されていた。相馬野馬追や双葉ダルマ市の様子もここで紹介されている。
 
 福島第一原発は1973年から営業運転が始まった。原発ができる前の相双地域の主な経済基盤は「農業」だった。ところが、戦後は農業の衰退と過疎化が進んでいた。
 そんな中、高度経済成長とオイルショックによる石油価格の高騰で、エネルギーの多様化が求められていた。都市部の人口増加でエネルギー需要が高まっていたこともあり、この福島県双葉郡に原発が建てられた。原発ができたことにより雇用を生み出し、双葉郡の人口も増加に転じた。東電の存在は非常に大きく、東電が地域のお祭りに参加することもあったという。やはり、地元の人にとって、原発や東電の存在は「福の神」だったのだろう。
 
 原発ができた頃に書かれたと思われる子どもたちの書道作品などが展示されていた。書道の題字に「原子力の利用」かぁ…。何だか複雑な気持ちになる。しかし、原子力発電がこれからの日本のエネルギーを支えていくんだ!と本気で信じていたんだろうな…と考えてしまう。
 
 子どもたちによる体験学習の記録集も展示されていた。「原発ができたおかげで生活が豊かになった」と書いているのが印象的だ。原発の存在は大人だけでなく、子どもたちにとっても「生活の一部」になっていたことが分かる。親の仕事の収入がなければ子どもたちの生活が成り立たなくなってしまうからだ。
 
 原子力ポスターコンクールの作品や「原子力発電所の緊急時に備えて」のポスターも展示されていた。火力発電などとは違った、新しい形のエネルギー源であり、地球環境を守るもの、様々な可能性があることなどを考えていたのだろう。町が一丸となって原子力発電を「推していた」のだと感じた。
 
 震災前の小高駅(常磐線)の時刻表や双葉ダルマなども展示されていた。小高駅の時刻表だが、震災前よりも列車の本数があったことが読み取れる。現在の双葉駅の時刻表だと、普通列車が上下11本ずつだったからだ。
 
 子どもたちの学校の生活の記録として、バレーボール部の賞状、鍵盤ハーモニカ、手提げバッグや帽子などの持ち物も展示されていた。持ち主だった児童生徒は無事だろうか。震災や原発事故をどのように見ているだろうか。
 
 この写真は震災前の双葉町中心部に掲げられていた「原子力 明るい未来のエネルギー」という看板だ。震災後は双葉町の大部分が帰還困難区域となったために放置されていたが、老朽化が激しく、2015年に撤去された。この標語は1987年当時、小学校6年生だった大沼勇治さんが学校の宿題で考案したもので、1991年に看板になった。当時の町長から表彰されたこともあり、大沼さんは誇らしい気分だったという。
 子どもの頃の大沼さんは「(原発によって)町が発展してビルが建ち並び、新幹線も通るのかな」と希望を抱いていたというが、大沼さんの標語が看板になってから20年後に原発事故が起きてしまい、今では自責の念を抱えているという。
 
 
 伝承館で実際の展示を見て、それをブログに書いていて思うのが、町が一丸となって原子力発電を「推していた」という事実だ。東日本大震災が起きる前にも、海外ではスリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故が起きていたが、福島をはじめ、日本では原子力発電が続けられていた。急激な人口増加と都市化、産業発展が進んで、原子力発電がなければエネルギーが足りない。電気がなければ私達の暮らしは成り立たない。そして、原発のおかげで豊かになった暮らしを捨てたくないという思いがあったのだろう。
 
 しかし、その「まさか」は起きてしまった。その「まさか」は人が考えていた「想定」を遥かに超えるものだった。海外での原発事故を受けて、「日本の原発でもそういうことが起きるかもしれない」と危惧していた人はいただろう。しかし、町が一丸となって原発を「推していた」となると、その声はかき消されてしまったのではないだろうかと考えた。みんながやっているからと言って、一人ひとりが「考えること」をやめてしまうのだ。福島県への風評被害もそうだが、原発事故で他県に避難してきた児童生徒への「震災いじめ」、そしてコロナ禍におけるデマなどもそうだった。
 
 それでは次回に続きます!