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 南三陸町復興祈念公園の防災対策庁舎とモニュメント、旧志津川駅跡を見たあとはさんさん商店街に戻り、写真館「佐良(さりょう)スタジオ」へと足を運んだ。佐良スタジオには「南三陸の記憶」という写真展示館が併設されており、震災前〜震災後の南三陸町の様子を写した写真が公開されている。
(詳しくは佐良スタジオの公式サイトをご覧下さい)


 下の写真は、さんさん商店街にある佐良スタジオの常設写真展示館「南三陸の記憶」の写真を使った看板である。すでに解体されてしまった公立志津川病院と南三陸警察署も写っている。震災の2日後(2011年3月13日)に撮られた写真だが、病院と警察署、防災対策庁舎を除いて何もかもが破壊されていることが分かる。


 大人入館料300円を払って中に入った。最初は震災前の美しい南三陸町の風景写真が飾られている。写真館の奥のほうに行くと、津波が町を飲み込む瞬間の写真や避難所での写真が沢山展示されていた。どれも心が痛む写真ばかりだったが、一方で「よくこの瞬間を写真に収められたなぁ〜」とも思った。

 Business Insider Japanのサイトに、佐良スタジオを取材したときの記事がある。震災前の佐良スタジオの写真や、震災後の南三陸町の写真もあるのでぜひご覧頂きたい。(津波襲来の瞬間の写真もあるので、閲覧の際はお気を付け下さい)



 「佐良スタジオ」は親子2代で経営されてきた。50年以上の歴史があり、地元・南三陸町の祭りや結婚式、学校行事等の撮影を担ってきた「地域密着型」の写真館であった。

 東日本大震災が起きたあの日、店主の佐藤信一さんは店舗兼自宅の建物の中にいた。ご家族をすぐに高台に避難させたあと、自身もカメラバッグを担ぎ、志津川小学校へと避難した。志津川小に着いたとき、佐藤さんは町全体を見渡せる場所に行き、シャッターを切った。ところが、このときに「試し撮り」した1枚が、町の最後の姿になってしまった。

 八幡川の水門を突き破った津波は、ものすごいスピードで町を破壊していき、佐藤さんの店舗兼自宅も流されてしまった。佐藤さん自身も、心を殺しながらシャッターを切ったという。津波が町を飲み込む瞬間は肉眼では見られず、カメラのレンズを通すことで現実逃避していたのだと思う、とのちに佐藤さんは語っている。

 いくら写真屋であっても、こんな状況で写真を撮っていたら周りから罵倒されるに違いない、と佐藤さんは思っていたそうだ。しかし、東北の他の町にも津波が押し寄せているであろう状況で、写真を撮れる人が自分(佐藤さん)しかいないとしたら、後世に何も残らないのではないかと思ったという。後世への伝承、記録という使命感から写真を撮り続けた。「人が流される瞬間を撮ってしまった」という罪悪感は今もあるという。


 写真は動画と違い、「一瞬」「瞬間」を切り取って残せるという特徴がある。東日本大震災の津波が町を破壊していく様子はテレビやインターネットで何度も見てきたが、市街地が壊滅する前の様子や、津波が町を飲み込んだ「瞬間」を見たのは初めてだった。

 先ほどのBusiness Insider Japanのサイトでは、津波が防災対策庁舎を襲う直前の写真も載せられており、佐良スタジオでも見た記憶がある。あの写真では、防災対策庁舎の屋上には沢山の人が避難していた。裏を返せば、防災対策庁舎は南三陸町にある数少ない「高台」であったからだ。

 しかし、南三陸町を襲った津波の高さは15mを超え、防災対策庁舎でさえも簡単に飲み込んだ。津波が防災対策庁舎を飲み込んだ写真を見ると、「逃げる場所」なんてどこにもなかったことが分かる。実際、防災対策庁舎に避難していた53人のうち、43人は津波の犠牲になっている。

 佐藤さんは避難所生活の様子など、「被災後」の姿も撮り続けた。2012年2月には、仮設の「南三陸さんさん商店街」に店舗を構えた。避難所生活によって離れ離れになってしまった住民がさんさん商店街で再会し、無事を確認し合う姿もあったという。佐藤さんはそのような場面も写真に撮ったという。そして2017年には本設の「さんさん商店街」に店舗を構えた。現在の佐良スタジオは、震災前とほぼ同じ場所にある。改めて、「写真」を通じて被災後の姿、復興へ向かう姿を伝えていって欲しいと思った。


 佐良スタジオを出たときはもう15時を過ぎていた。15:33に「道の駅さんさん南三陸」を出発する高速バスに乗って仙台に戻り、東北新幹線に乗って東京へ帰る予定だ。旅の終わり、旅行記の終わりが近付いてくる。

 次の記事で、南三陸旅行記の本編完結です!