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 「門脇小学校の思い出」を見学したあとは、石巻市内の被害状況の展示を見ていった。当時の写真だけでなく、被災された方の「生」の証言もあり、とても見応えがあった。印象に残ったものをいくつかピックアップしていく。

 

  まずは「人的被害」についての説明だ。東日本大震災による石巻市の犠牲者・行方不明者の数は3,602人であり、市町村別では最多となってしまった。ご遺体の数があまりにも多く、速やかにご遺体をご家族のもとに返せない日が続いたという。

 そして海の中では現在でも行方不明者の捜索が続けられており、ボランティアのダイバーが「危険と隣り合わせ」という状況で捜索を行っている。東日本大震災は終わっておらず、「現在進行形」で続いていることを改めて感じる。

 

 保育所や福祉施設の被害状況も説明されている。放課後等デイサービスで働いている私にとっては胸にささる展示だった。

 

大地震発生後、高台にある石巻保育所に避難した。

職員は0歳から5歳までの幼児をおんぶや抱っこ、

避難車に乗せたりして、声を掛け、励ましながら、

きつい坂道を登って1.8キロメートル先の石巻保育所へと辿り着いた。

家族のことが心配で心が壊れそうになりながら、

目の前に居る子どもたちを守ることが精一杯だった。

(保育士の証言)


どの避難所も床での寝食、和式のトイレ等で、

障がいのある方や、虚弱の高齢者にとって

自立を阻む環境に問題を感じたが、

ベッドやポータブルトイレ等の物品が

確保できない状況にあった。

(保健師の証言)



 災害発生時の避難はもちろん、避難後の生活も「大変」という言葉では言い表せない苦労がある。

 「子ども」「障害」「高齢者」「避難」、これらのワードを聞くと嫌でも、あの「理不尽な発言」を思い出してしまう。しつこいようだが、やはり忘れることはできない。本当はあの発言の内容を書いて恨みを晴らしたいが、被災された方もこのブログを読んでいることを考えると、やはりできない。


 保育士さんや幼稚園・学校の先生、福祉施設の職員は「子どもや利用者の命を守れて当然」だと思っているのだろうか。だからこそ、イレギュラーなことが起きると気が動転して頭が真っ白になってしまう私にあの「理不尽な発言」をしたのだろうか。しかし、本当に大きな災害が起きたとき、「冷静に」「落ち着いて」行動できるのだろうか。自分の命が危ない中で人の命を守ることなんてできるのだろうか。そんな中で「落ち着いて行動して下さい」なんて言われても納得できない。

 「理不尽な発言」をしたスタッフが、本当に大災害を経験して子どもや利用者を避難誘導した経験があるならまだしも、本当の「修羅場」や「地獄」、「生と死が隣り合わせ」という現状を知らない人には絶対に言われたくなかった。(たとえそのような経験があっても絶対に嫌だけど)


 本当は書きたくないし、思い出すのも嫌なのだが、私は「落ち着いて」と言われるのが嫌でたまらないのだ。その言葉を言われるたびに、冷静な判断ができない自分を責めてきたし、自分が責められているように感じてきた。

 「落ち着いて」と言われるのが嫌な理由だが、本当にパニックになっているときに「落ち着いて」と言われても落ち着けないからだ。そもそも「落ち着いている」という状態がどういう状態なのかもよく分からない。こんなことを言ったら社会人としての適性を疑われてしまうかもしれないが、「普通」や「大人の対応」などにおいても同様で、定義が曖昧な言葉を言われても困るのだ。


 門脇小学校に在籍していたと思われる児童の証言も展示されていた。


 門小(門脇小学校)は、避難訓練がすごいしっかりしている学校で、

静かに黙ってついていかなくてはいけないものと思っていた。

転校先は震災の影響を受けていない地域だったので、

雰囲気が違い、避難訓練はゆるくて、

震災を体験した身からすると

何の避難訓練なんだろうって思った。



 この証言の証人となった児童の転校先は分からないが、石巻は本当に広く、2005年の「平成の大合併」で市域がさらに拡大した。市域が広ければ地理的事情も当然異なってくる。去年(2022年)2月に石巻に行ったとき、旅行2日目では、仙台から東北本線で小牛田(こごた)駅まで行き、小牛田から石巻線で石巻へ行くというルートをとった。

 石巻市というと、全域が震災の大きな被害を受けたというイメージがあったが、石巻線の前谷地〜石巻間は同じ石巻市内でも海から離れた位置にあるためか、「震災の爪痕」をあまり感じなかった。実際、当該の区間は2011年5月までには復旧している。


 東北地方の太平洋沿岸では、東日本大震災以前にも繰り返し、津波の被害を受けてきた歴史的経緯がある。中でも門脇小学校は「目の前がすぐ海」という立地だ。「大きな地震が来たら必ず津波が来る」という考えのもと、「しっかりとした」避難訓練を行っていたのだろう。(「しっかりする」という言葉も定義が曖昧だと思うが…)


 門脇小学校では、日頃の避難訓練が功を奏していたこともあったためか、奇跡的に誰ひとり、犠牲者を出さずに済んだ。しかし、同じ「石巻市立」の学校でも、大川小学校では、津波が来る可能性が予測されていたにも関わらず、全校児童108人中74人、教職員も11名中10人が犠牲になってしまった。

 改めて2つの小学校を対比して考えてみると、大川小学校は北上川の側に位置するが、海は全く見えなかった。雄勝タクシーの運転手さんも「まさか津波が川を遡上してくるとは思わなかった」と仰っていた。「ここまで津波が来ることはないはずだ」という思い込みが、結果的に避難を遅らせ、多数の犠牲に繋がってしまったのだろうか。


 また、「逃げる場所」が近くにあるかどうかもキーポイントになると言える。門脇小学校は近くに標高60mほどの「日和山公園」がある。日和山公園への道や階段も整備されていて、多くの住民の避難場所となった。当時門脇小学校に在校していた児童も日和山公園に避難して難を逃れた。

 石巻の話ではないが、気仙沼市にある「気仙沼向洋高校」では、生徒と教職員は海抜32mの「気仙沼市立階上(はしかみ)中学校」に避難し、校内に残った教職員は、気仙沼向洋高校の校舎屋上に避難して難を逃れている。


 しかし、石巻市立大川小学校では、学校の近くに裏山があったものの、「安全に」避難できる場所ではなかった。斜面は緩やかだったと言われているものの、階段もなければ舗装されているわけでもない。余震や降雪で足場が悪くなっていることを考えると、現場にいた先生方は裏山への避難を即決できなかった。

 また、岩手県で最多の犠牲者が出てしまった陸前高田市では、平地が広がり、「高台」が見当たらない。逃げようにも逃げる場所がなく、「避難場所」に指定されていたところで命を落としてしまった人も多かった。陸前高田のシンボルロード・「ハナミズキのみち」の由来はここにあり、津波で息子を亡くしたある女性が、同じ悲しみを二度と繰り返さないよう、一目で「避難路」と分かるようにハナミズキを植樹したのが始まりだった。


 同じ石巻市、宮城県、岩手県、東北地方であっても地理的事情が異なれば、震災によって受けた被害も異なってくる。それが人々の「防災」への意識にも反映されるのだろう。門脇小学校に在籍していた児童が、転校先の学校の避難訓練の雰囲気に違和感を抱いたのも分かる気がする。



 最後に、学校の防災訓練に関して書かれた興味深い記事を紹介する。 



 最近、頂いたコメントに対する返信ができておらず申し訳ありませんアセアセ読者の皆様から頂いたコメントは全て大切に読んでいます。私がコメントを読んだ印は、読者の皆様からのコメントを「承認」する形で対応させて頂いております。どうかご理解頂けたらと思います。

 それでは次回に続きます!