※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。

 

前回までの記事はコチラから。

 

 

 

 

 旅行記の更新が空いてしまい、スミマセンでしたアセアセ2日目第4話、綴っていきます!

 

 広田湾に向かって手を合わせたあと向かったのは「奇跡の一本松」だ。テレビや新聞で何度も見てきたし、気仙沼から陸前高田へ向かうBRTの車窓からも見えた。しかし、近くに行って実際に見るとまた違う。実際に見ないと分からない「重み」があった。

 

 献花台にはプレートが設置されている。

 

 今、復興祈念公園に立っている一本松は実際のものではなく、「レプリカ」である。7万本あった高田松原の松が東日本大震災の津波でほとんど流されてしまい、奇跡的に一本だけ残った松が「奇跡の一本松」と呼ばれるようになったのは前回の記事でも説明したとおりだ。実物は被災後もしばらくはあの位置に立っていたが、長らく海水に浸かっていたことから深刻なダメージを受け、2012年5月に枯死が確認された。枯死ということは、いつ倒木してもおかしくない状況でもあり、全長27mもある一本松が倒れてしまったら二次災害の危険性もある。伐採か保存かで揺れる中、陸前高田市の戸羽太市長(2011年2月~現職)は一本松を「保存」することを決断した。

 

 しかし、一本松の保存には1億5000万円の費用が必要との見積もりが出ており、反対の声を上げる住民もいたという。そこで陸前高田市では、一本松の保存費用を全額「寄付」でまかなうことにした。2012年7月に寄付を呼びかけてからおよそ1年で目標額の1億5000円を達成し、最終的にはおよそ1億9000万円の寄付が集まった。2012年9月から一本松の伐採・搬出作業が行われ、県外の業者に委託して防腐処理等が施された。2013年3月から陸前高田での設置作業が始まり、同年6月末に保存工事が完了した。同年7月に行われた保存事業完成式には「たかたのゆめちゃん」も出席している。

 

 一本松のすぐそばにあるこのモザイクアートは漫画家・やなせたかし先生によって描かれたものだ。やなせ先生が描いた一本松のキャラクターは「ヒョロ松君」と命名されている。震災当時、92歳となっていたやなせ先生は一本松に自分の姿を重ねて見ていたという。やなせ先生は一本松保存事業のために個人で1000万円を寄付したことでも知られている。また、当初は一本松保存にかかる1億5000万円を全額寄付する予定であったという。

 

 

 その後、震災遺構として残されている「陸前高田ユースホステル」を見学しに行った。1969年に開所し、2010年4月に休館するまで国内外から多くの宿泊客を受け入れてきた。東日本大震災の津波で大きな被害を受けるが、震災当時は休館中だったため、人的被害はなかった。

 

 コチラもアングルを変えて撮ってみた。建物が折れ曲がり、鉄骨がむき出しになっている。また、エアコンの室外機もぶら下がっていた。

 

 奇跡の一本松とユースホステル。一本松が倒れず残ったのは、ユースホステルが「防潮堤」の役割を果たしたからではないかと言われている。市街地の建物がほとんど全て流されてしまった中、ユースホステルが残ったのは「奇跡」としか言いようがない。「紙一重」とはこういうことを言うのだろうか。

 

 

 「ブログ」である以上、写真だけでなく「文章」での説明も欠かせないため、今回の記事を書くのはかなり時間がかかってしまった。間違ったことを書いてしまうのはいけないと思い、時間をかけて色々なサイト等を参考にし、自分なりの文章を紡いでいった。

 

 今回のブログ記事を書くにあたり、「奇跡の一本松」の保存に至るまでの背景を調べたが、多額の費用をかけてまで保存するのに反対する住民がいたこと、保存費用の全額を寄付でまかなったことなど、初めて知ることも多かった。そして、広島市にある「原爆ドーム」の保存経緯と重なる部分があることに気付いた。

 

 私は2015年8月に広島を訪れており、原爆の被害を受けた「原爆ドーム」を見学している。元々は「広島県物産陳列館」として建設された建物だったが、原爆投下により無惨な姿になってしまう。ドーム型の骨組みが残ったことから、「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。

 戦後、「原爆ドーム」の保存運動が高まるが、戦争や原爆の惨禍を思い出させるものであること、台風や地震による倒壊の危険性があることからも解体を求める声も多く挙がっていた。しかし、一方では戦後の広島の復興が進み、原爆や戦争の惨禍を残すものが次第に消えつつある現状もあった。こうして原爆ドームは保存されることになり、1967年から現在に至るまで4回の保存工事が行われている。

 

 震災遺構の保存においても同様のことが言える。被災された方からすれば「見たくないもの」「忘れたいもの」であるし、使われることのないものにお金を掛ける意味が分からないという意見があるのは当然のことである。しかし、年月が経てば「風化」は避けて通れない問題となってくるし、被災当時を語れる人もいずれはこの世からいなくなってしまう。

 

 講談社の「FRIDAY DIGITAL」のサイトによると、陸前高田市の戸羽市長は「私は何かを考える時、10年や20年後を考えなければいけない」といつも思っていたという。そして一本松を保存するかどうかの決断を迫られたとき、「(一本松を)伐採すれば陸前高田という街自体も必ず忘れ去られる。そしてとてつもない被害があったことも…」と話していたそうだ。

 

 陸前高田の街自体が忘れ去られるということは、震災前の穏やかな街の姿も、そこに人々の生活の営みがあったことも、美しい自然があり多くの観光客で賑わったことも全て忘れ去られてしまうことを意味する。「奇跡の一本松」はかつて陸前高田が誇る高田松原があったこと、県内外からの観光客で賑わい、人々の心の拠り所になっていたことを伝えるものなのだ。

 

 震災被害のインパクトが大きくなってしまった陸前高田市であるが、かつてここに街があり、人々の生活の営みがあり、人々の心の拠り所になっていたことを忘れず、後世に語り継いでいく。正解などないが、これが私達に求められていることなのだろう。

 

 次の記事で「旧道の駅高田松原」、「気仙中学校」を見学した感想を書いていきます。それでは次回に続きます!