久々に書評を書きたいと思います。

今回紹介するのは、ジーン・ウェブスターが書いた「あしながおじさん」です。原題は「Daddy-Long-Legs」です。1912年に出版されました。


光文社古典新訳文庫の電子書籍版をダウンロードして読みました。

 

簡単にストーリーを説明すると、孤児院育ちの少女、ジェルーシャ(ジュディ)・アボットが「ある人物」からの援助で大学に行けることになり、その様子を「ある人物」への手紙に書いて報告するというものです。「ある人物」はとても手足が長く、背の高い人であることから、ジェルーシャは「あしながおじさん」とあだ名を付けます。

最初の冒頭部分を除いて、ジェルーシャから「あしながおじさん」への手紙で物語が構成されている「書簡体小説」です。

子どもの頃に読んだことがある人も多いでしょうが、あらためて紹介させて頂きます。

 

 

主人公のジェルーシャ・アボットはジョン・グリア孤児院で暮らす18歳の少女。生まれたときから両親がなく、ずっと孤児院で暮らしてきました。


ジョン・グリア孤児院での第一水曜日は「憂鬱な水曜日」(Blue Wednesday)と呼ばれていました。偉い評議員さんが視察にやって来る日だからです。子どもたちは全員、お揃いの青いギンガムチェックの服を着せられ、お行儀良くしていなければいけません。


評議員さん達が帰っていくとき、ある評議員さんの「人影」がジェルーシャの目に留まりました。車のライトに照らされたその人影は、手足がとても長く、まるで「アシナガグモ」のようでした。


その後、ジェルーシャは孤児院の院長であるミセス・リペットに呼び出されます。その内容は、「ある人物」がジェルーシャを大学へ行かせてくれるというものでした。「アシナガグモのような人影」の評議員さんです。

身寄りのないジェルーシャに対して、大学の学費と寮費、そして月々のお小遣いまで援助して下さるというものでした。


しかし、その評議員さんは莫大な援助に対するお返しを望んでおらず、代わりに、ジェルーシャに対して月に一度、大学での様子を手紙に書いてきて欲しいとお願いしてきたのです。そして、自ら正体を明かすこともなく、「ジョン・スミス」という名前で送って欲しいということも。

こうしてジェルーシャの大学生活はスタートするのでした。



それ以降は、ジェルーシャから「ジョン・スミス氏」へ送った手紙で物語が構成されています。

大学に入学してからは、ジェルーシャは「ジュディ」と改称し、「ジョン・スミス氏」のことは、背が高く、アシナガグモのように手足が長いシルエットをしていたことから、「あしながおじさん」(Daddy-Long-Legs)というあだ名を付けて呼ぶことにしました。


ジュディは大学生活のこと、友達のこと、プライベートのことなどを「あしながおじさん」への手紙に書き綴っていきます。



ジュディの楽しい大学生活が生き生きと書き綴られている一方で、当時のアメリカの社会情勢や孤児への偏見、自立への考えなどがジュディの手紙から垣間見えます。


大学に入った当初のジュディは、「自分でも驚くほどモノを知らない」人間だと、手紙に書き綴っていました。生まれてから18年間を孤児院で過ごしたジュディですが、家庭での教育はないに等しかったのでしょうね。孤児院では、「教育」は二の次だったのでしょう。


実際、ジュディは大学生になるまで、「不思議の国のアリス」や「若草物語」を読んだことがありませんでした。また、「メーテルリンクさんって新入生?」と聞いてしまい、他の学生に笑われてしまったというエピソードもあります。(メーテルリンクさんは戯曲「青い鳥」を書いた人です)


当時のアメリカの大学入試の制度は分かりませんが、皆厳しい競争を勝ち抜いてきた学生ばかりです。当然ですが周りのレベルは高いものです。「知っていて当然」とされる知識を何も知らず、最初はジュディも悔しい思いをしたでしょう。

だけど、その悔しさをバネにして、ジュディは夜に「普通の本」を読むことにしました。こうしてジュディは教養を付け、18年間のブランクを少しずつ埋めていったのです。



また、ジュディは「大学で難しいのは勉強じゃなくて、遊びのほうです」と、「あしながおじさん」への手紙に書き綴っていたのですが、これには私も共感せざるを得ませんでした。


ジュディは手紙で「世間では私はよそ者で、みんなの話す言葉が分かりません。これは惨めなものです」と書いていました。このとき、ジュディの周りにいた学生達は、ジュディ以外のみんなが知っている過去のジョークをネタにして話しているようでしたが、ジュディにはその「過去のジョーク」が分からないのです。だからみんなの話の輪に入れない。ついていけない。


自分が経験したことのない話を聞いて、それを理解するのは本当に大変なことです。特に、ガールズトークのテッパンである「恋愛」の話にはついていけなかっただろうなぁ…と想像してしまいます。10代後半〜20代の女子と言えば、恋におしゃれに遊びに…という世代。しかし、当時の孤児院では「友達付き合い」なんてものはなかったのでしょう。当然ジュディも「遊び」や「友達」というものを知らずに育ってきたものと思われます。


このブログを読んでいる皆さんには想像つかないかもしれませんが、私もかつてはジュディと同じく、「勉強よりも遊びのほうが難しい」と感じていました。

それもそのはず、中学時代はイジメに遭っていて、友達もほとんどいなかったからです。小学校のときからの友達とも疎遠になってしまいました。


このような経緯があったため、高校は電車で40分ほどかかる私立の高校に通うことにしました。同じ中学からの友達がほとんどいなかったので、新しい友達を作るチャンスになるかと思ったからです。まぁそれでも受け身の姿勢は相変わらずでしたが(^_^;)


「勉強以外の楽しみ」とか「友達とどこかに遊びに行く」なんていうものにも無縁の生活を送っていたので、当然知らないことだらけでした。今では当たり前に知っていることでも、当時は「電車の乗り換えがあるとその分、所要時間がかかる」ということさえも知らなかったのです。電車の経路をどうやって調べるのかさえも、分かりませんでした。


だけど、その「分からない」ということを言えないんですよね。言ったら言ったで当時のジュディと同じく、「これまでの育ち」や「教養」を疑われてしまうワケで…。私はジュディと違って、両親と弟がいる一般家庭で育ってきて、幼稚園、小中学校で普通教育を受けてきましたが、「あなたそんなことも知らないの?」と頭ごなしに否定されてしまうような気がしてならなかったのです。


あと、「恋愛」の話についていけないのは私も同感です。前述しましたが、自分が経験したことのない話を聞いて、人の話を理解するのは本当に難しいことです。

「経験」がないから、「人を好きになる」ということがどういうものか分からない。当然それに伴う感情も分からない。「好きな人のことを考えるあまり、胸がキュンキュンしてしまう」とか「私の好きな人が別の人と仲良くしているかも…」とか、そういった気持ちも分からないので、相手の話に共感しようがないのです。


だけど、「それってどういうことなの?」と聞けず、相手の話についていけないまま聞いてしまう。あとで「アンタ話聞いてなかったでしょ」と言われる…。その繰り返しでした。「分からない」「教えて」と言えなかったのです(^_^;)


思えば恋愛だけでなく、「人間関係」でも同じ苦労をしているなぁ、と感じます。中学はもちろん、高校になっても「友達付き合い」というものが少なかったので、人との距離感や、相手の感情を読み取ること、先輩後輩との上下関係が分からないということがあります。


物の言い方ひとつでも、本当のことを言っただけなのに、相手がすごく嫌な顔をしている。だけど私にはその理由が分からない。

学生ならまだしも、社会人になってからだと「アンタそんなことも知らないの?バカじゃないの?」といった感じで注意されてしまうんですよね…。この気持ちは当時、ジュディが経験した「世間では私はよそ者」という気持ちと同じような気がしてなりません。


社会人になったら「自分で考えなさい」というのが大前提になるのでしょうが、やはりそれでも言ってくれないと分からないことはあります。なぜそうなったのかという「理由」、そして「これからどうしていけば良いか」という「未来」をお互いに考えていく。私の職業である障害児の支援でもそれが大事だと強く思います。

ただ一方的に「あれはダメ」「こうしなさい」と言われても、支援者と言われた本人、互いが納得しないと意味がないですよね。

どうしたら相手に納得してもらえるか、「○○しよう」「○○したい」と思ってもらえるか、そういう環境を作っていくのが支援者の仕事だと思うのですが、どうでしょうか?



「あしながおじさん」の話題から随分脱線してしまいましたが、ジュディの入学当初のエピソードだけでもこんなに書けてしまう自分にビックリしています(^_^;)

こうやって色々考察するのが、文学の醍醐味なのかもしれませんね(笑)



その後も2〜3編ほど「あしながおじさん」の書評を書く予定です。お時間ある方のみお付き合い下さいませ〜m(_ _)m