第6話 原発事故の陰に隠れた地震・津波被害 ~浜街道を行く 震災15年目の春~
※被災物の写真、地震・津波被害による詳細な記述があります。閲覧はご自身の判断にてお願いします。 遺構となっている校舎の外観を見たあとは、校舎内に入って展示を見学した。 校舎入口には「わたしたちのまち請戸」と書かれた地図が掲示されていた。赤い丸で囲ってあるのが請戸小のある位置である。浪江町の中心部から離れた位置にあることが分かる。 震災前後の請戸地区の写真も展示されていた。上が震災前、下が震災後の写真である。震災前は海沿いに民家があったが、震災後は津波で完全に水没してしまい、海沿いにあった家も流されてしまっていることが分かる。 校舎に設置されていた時計が展示されていた。被災当時は校舎の壁にかけられていたが、震災から10年の月日が経って徐々に垂れ下がり、落下してしまったという。震災遺構の劣化を感じる。 校舎2階では、様々な住民の声や震災前の取り組みも紹介されていた。こちらは「津波ハザードマップは活かされたか」という展示である。浪江町では住民参加のワークショップを経て津波ハザードマップを作成・配布し、避難訓練を実施していた。津波への意識付けになった一方で、「ハザードマップ以上の被害はない」という思い込みを生んでしまった側面もあったという。 町内に押し寄せた津波を見たという住民の証言が紹介されていた。福島県というと原発事故のことがクローズアップされる機会が多いが、地震と津波による被害も甚大だった。 特に印象に残ったのは、「避難の呼びかけを連呼したが、どうせ津波は来ないから」と道路沿いに立っていた男性がいたというエピソードだ。その男性は無事だったのだろうか。「もっと強い口調で避難を呼びかけていれば…」との後悔が強く伝わってくる。 原発事故の影響により、行方不明者の捜索が遅れたことも説明されていた。過去の旅行記で、ブロ友さんから「津波で行方不明になった家族を探したくても避難せざるを得なかったご遺族の無念は忘れてはならないと思っています」とコメントを頂いたことを思い出す。 「職員の記録より」で、津波被災者の親族の方から「とにかく捜索に行かせてくれ。頼むから行かせてくれ」と泣かれたシーンは堪えた。 請戸小の校旗も展示されていた。元々の校旗は職員室に収納されていたが、大津波により水浸しになってしまい、原発事故の影響ですぐに回収することもできなかったため、とても汚れて傷んでしまっていた。 写真の校旗は、「いつ請戸小学校が再開してもいいように」という目的で、元々使っていた校旗を再現するような形で作られたという。しかし、2017年3月末に浪江町の避難指示が解除されても、請戸小が再開されることはなく、2021年に閉校となった。 鼓笛パレードで使われていた楽器も展示されていた。私が通っていた小学校でも鼓笛隊があり、運動会で5~6年生が演奏していたことを思い出す。請戸小でも運動会や町の交通安全パレードで演奏されていたそうだ。「在りし日の思い出」をいかに伝えていくかがこれからの「伝承」に求められてくるように思う。 室内展示の説明は一部割愛させて頂いたが、原発事故の陰に隠れた地震と津波被害に対する思いを知ることができた。全ての展示を見学し終わったときには15時近くになっていた。再び「なみえスマートモビリティ」を予約し、浪江駅まで送ってもらった。 16:04の特急ひたちに乗って、本日の宿泊地である仙台へと向かう予定だ。特急の発車時刻になるまで、駅前を散策したが、2024年1月に訪問した双葉町と比べると住宅やお店がそれなりにある印象を受ける。しかし、車社会ということもあるのか、駅前を歩いている人は少なかった。 震災前の浪江町の人口がおよそ21,000人だったのに対し、2026年2月末の時点で浪江町に居住しているのはおよそ2,400人ほどである。双葉町と比べるとものすごく「多く」思えるが、やはり震災前の水準に戻ることはないのだろうなぁ…と考えてしまった。 特急の発車時刻が近づき、仙台方面のホームへ行ったが、強風により列車が遅れているとのこと。旅行から1ヶ月以上経ってしまい、詳細は覚えていないが、20分以上経ってから列車が来た記憶がある。無事に特急に乗ることはできたものの、途中駅でも後続列車の遅れ(?)により電車が止まってしまい、仙台駅に到着したのは18時前だった。定刻通りであれば17:25の到着予定であった。 それでは次回に続きます!