ネットニュースで見かけたこの記事。
大炎上「高齢者は“延命治療NO”宣言を」がスルーした「延命治療現場のリアル」 高齢者の9割は「延命治療はせず、自然に任せてほしい」と思っている(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
母の胃ろう、これでよかったんだと自分を納得させたつもりだったけど、
こういう記事を読んでしまうとまたつらくなる。
延命は本当に生きてる人間のエゴでしかなくて、
母の意思を確認できないのに母の尊厳を踏みにじっていることになる。
ただただ母とお別れする覚悟ができていないだけ。
いづれ最期の時が来るのはわかってるけど心の準備ができてないからそれまで時間稼ぎをさせてもらってる。
それがエゴなんだよね。。。
今思えば半年前胃ろうの手術をしていなかったら
今も生きていられたかわからない。
でも胃ろうの手術をした翌月から長女が学校を休みがちになってしまったので、
仕事もそこそこに全力で長女に向き合う日々が始まって、
スクールカウンセラーさんや発達支援センターや学校の担任の先生と何度も面談し、
病院通いも続けて何とか別室登校ができるようになった。
でも学校に行って皆と同じペースで同じ内容の事を足並みをそろえてやるのが難しい長女に合った
学習方法や自分自身で乗り越える方法を見つけるまで寄り添ってあげないといけないと思ってる。
過保護なのかな、、、少なくとも知能検査を受けてみてそう思った。
胃ろうをせずに自然に任せていたらこの半年で母はどうなっていたかわからないし、
長女にここまで向き合えていたかわからない。
もし思春期に入って親と距離を置くようになってしまったら
ここまで私にいろんなことを話してくれたかわからないし、
やっぱり長女に向き合うなら今がチャンスだと思った。
今は長女の大事な時期だから母の胃ろうの決断はちょうどよかったと自分に言い聞かせていました。
7年前に亡くなった父の事だって
実家へ行くと実家で父が出した空き缶のごみや調味料の瓶ですら思い出の品で捨てられなかったんだけど、
ようやく不燃ごみとして捨てる覚悟ができたし父の車も処分した。
でもやはり父を救急外来に連れて行った日や危篤状態の日々とか命日が近づくと動悸がしそうになるし、
ATMでお金をおろしたり、レジにバーコードをかざした時の電子音を聞いていると
肺炎で父の酸素飽和度が下がって心拍が乱れて父ももがき苦しんで波形も乱れて生体情報モニターがピコピコなっていたのを今でも思い出して苦しくなる。
父が亡くなってからはそれはそれは心が空っぽになってしまって育児なんでできる状態じゃなかった。
育児や仕事で気を紛らわせることはできたけど、
死を受け入れて乗り越えるなんてできなかった。
たった3年介護していた父の事ですら7年経ってもこんな状態なんだから
17年前に認知症と診断されてから母に寄り添って、
父が倒れた10年前からは私がほとんど動いてきたから
多分母がこの世にいなくなってしまったら私正気でいられないかも。
育児とか仕事なんて手につかないはずだから、
長女の事もここまで向き合えないはず。
最期を見届けて虚無感と闘いながら
お別れした後もあれこれやらなきゃいけない事を片付けたり、
終末期のあの日々の光景がフラッシュバックしてしまったりして
あれをもう1度乗り越える自信は今はありません。
母の尊厳と長女のこれからの生活や未来を天秤にかける日々です。
自問自答してしまいます。
苦しませてごめんね、お母さん。
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