この記事は中編です。
『イェベン・コノバレッツ前編』からお読みください。
ロシア革命
1917年、戦争による経済悪化でロシアの首都サンクトペテルブルクでストライキが発生。これを抑えることができず、皇帝ニコライ二世は退位します。
後を引き継いだ臨時政権も暴動によって倒れ、レーニン率いるボルシェビキ政権が誕生します。
これらについては、既に記事にしているので今回は書きません。
ウクライナは、中央議会(ラーダ)を結成し、ロシアと交渉に当たります。
ロシア革命の影響でコノバレッツは解放され、ウクライナの首都キエフに戻ります。キエフは大戦の戦火ですっかり荒廃していました。彼は中央議会で働くことになり、ウクライナ人捕虜とウクライナ軍部隊を編制するために働きます。
著名な政治家ミコラ・コワレフスキーは、このときのコノバレッツについて次のように述べています。
「ガリツィア出身の他のウクライナ人、逃亡者、囚人に比べて、コノバレッツには非常に好印象を持った。彼の謙虚さと、ウクライナと東部での革命的出来事の経過を理解したいという彼の願望に感銘を受けた。」(Євген Коновалець у революційну добу 1917—1921)
コノバレッツは、とても人に好かれる性格をしていたようです。(わざわざガリツィア出身と比べられているので、当時からガリツィアだけ他のウクライナ地域と違っていたのがわかります。)
当初は高度な自治を要求していたウクライナ中央議会でしたが、十月革命でロシアにボルシェビキ政権が誕生すると、中央議会は得体の知れない政権から離れようと、ウクライナ人民共和国の設立を宣言をします。
ボルシェビキ政権はそれを認めず、翌1918年1月、赤軍がウクライナ領内に侵攻してきました。
シーチ銃撃隊
シーチ銃撃隊は、第一次世界大戦を戦うためにオーストリアが編成したウクライナ人部隊です。彼らは最新の武器と訓練を受けていました。
コノバレットはこの部隊をウクライナ人民共和国の軍隊とすべく活動していました。しかし、彼は指揮官になるつもりはなかったが、中央議会は、シーチ銃撃隊の指揮官にコノバレットを任命しました。
シーチ銃兵隊の隊旗出典:シーチ銃兵隊 - Wikipedia
27歳のコノバレッツ大佐とシーチ銃撃隊の8600人は、この戦争中、精鋭部隊として戦い抜きました。
1918年3月。キエフのシーチ銃撃隊。
出典:Євген Коновалець у революційну добу 1917—1921
ウクライナ人民共和国の運命
ウクライナ人民共和国の地図。
ウクライナ人民共和国の国旗。
今のウクライナの国旗と同じ。
しかしコサック国をのぞいて約700年ぶりのウクライナの独立国家であるウクライナ人民共和国は、わずか3年しか持たなかった。
1918年1月、ウクライナに侵攻してた赤軍だが、ウクライナは第一次大戦中のドイツと協力して、ドイツ軍と共にいったんは赤軍を追い払うことに成功する。
しかし、今度はドイツからウクライナへ食料提供を求められ、両国の関係は上手くいかなくなる。最終的にドイツとの関係は解消。
さらにウクライナの各派閥での内紛状態に突入。
一方、ウクライナの西では、ロシアの敗北により復活したポーランドが再びガリツィア地方を占領しようとします。
これに対してガリツィア地方のウクライナ人達は西ウクライナ共和国を宣言し、西ではウクライナ・ポーランド戦争が始まりました。
抵抗むなしく、1919年ポーランドがガリツィア地方を征服して西ウクライナ共和国は消滅。亡命政府は東部のウクライナ人民共和国に移ってきますが、翌年1920年、赤軍に破れウクライナ人民共和国は消滅します。
ウクライナの独立国家は3年間の戦いで消滅してしまいました。
コノバレッツ率いるシーチ銃撃隊も解散しました。
1919年1月22日。キエフ・ソフィア広場で休戦協定が発表された際、最高司令官シモン・ペトリウラ(中央)とシーチ銃撃隊のコノバレッツ司令官(彼の右側)
出典:Євген Коновалець у революційну добу 1917—1921
1900年。第一次世界大戦前のロシアは広大な領土を保有していた。
1918年。ウクライナ人民共和国の独立。
1920年。ウクライナ人民共和国はポーランドとソ連に分割占領されて消滅した。
地図いずれも出典:Historical maps around Ukraine
敗北の原因
ミハイル・ブルガーコフの長編小説『白衛軍』でも、昨日までロシア語名で名乗っていたものが今日はウクライナ語名になってしまったというような、そのことが揶揄される場面が登場する。
(中略)
国家運営を行った人材が必ずしも優秀とはいえず、優秀な人材の揃ったポーランドやボリシェヴィキに対抗することができなかった。共和国の閣僚はほとんどがまだ20代、30代の若い活動家で、経験不足が目立つ結果となった。
(中略)
独立失敗の最大の原因は、ポーランド共和国、ソ連、南ロシア軍および英仏などの干渉軍、独墺軍などの外的要因であったとされるが、ウクライナ民族が60%しかいない地域であったにもかかわらずそれでもウクライナ民族主義による排他的な国家樹立を武力で推し進めようとしたウクライナ人指導者たち自身の過激な民族意識そのものが原因であったとも言える。(中略)ウクライナ領内にあった各勢力が互いに潰し合いを行った結果、どの勢力も自滅状態に陥り、最後はロシア赤軍とポーランド軍という二大「非ウクライナ民族」勢力が勝利を二分し、ウクライナを二分した。(中略)現代の独立ウクライナは、自らをウクライナ人民共和国の思想的後継国家であると位置づけている。すなわち現在のウクライナ共和国はウクライナ民族主義を基本理念とする国家である。
1917-1920年のウクライナ人民共和国と21世紀のウクライナを比較すると、同じ事を繰り返しているのがよくわかります。
- ロシア語を急激にウクライナ語に転換
→ロシア語を禁止して東部ウクライナの離反を招く(2014年)
- 若い閣僚
→ゼレンスキー44歳、閣僚も若手ばかり
- 民族主義で強引に他民族を武力で攻撃
→アゾフ連隊など民族主義(ネオナチ)組織して東部ロシアより住民を弾圧
ウクライナ軍事組織(UVO)
「力がなければ、最善を尽くしても何も成し遂げられない。どうすれば力を得ることができ、最悪の災難からも勝利を収め、必要なものをすべてを手に入れられるのでしょうか」コノバレッツ。
UVO、OUN(M)のマーク。
出典:Украинская войсковая организация — Википедия
共和国が敗れ消滅した後も、コノバレッツは諦めず、なんとか政治的に団結して民族主義者を継続できないかを模索し続けます。
しかし、1921 年秋自体は一変します。
ポーランドの国家元首ピルスツキがリヴィウを訪問した際に、ウクライナの民族主義者達がピルスツキの暗殺を試み失敗します。
ポーランド当局は激怒し、ウクライナ軍の指導層のほとんどを逮捕しました。
団結どころではありませんが、それでも残ったガリツィア地方の軍人達とシーチ銃撃隊の残党は独立闘争を諦めません。彼らは幸運にも逮捕を逃れたコノバレッツをリーダーとして、ウクライナ軍事組織(UVO)を結成します。
1921年。友人や親戚とコノバレット。
出典:1917年から1921年の革命期のイェフヘン・コノヴァレッツ 歴史の真実
『イェベン・コノバレッツ後編』につづく。