「智」



…聞こえなかったのかな、気づかない。
公園に面した歩道を歩きながら、中にいた丸まった背中に呼びかけた。ゆうべはベランダから表情も不確かな距離だったけど、今は数メートル先にいる。今度は見まちがいじゃない。


花壇のまえであぐらをかいて、なにかに集中してる。人ちがいなはずはないけど2回呼んでちがったら恥ずかしいから、柵を越えて横顔が見えるくらいに寄ってみた。やっぱりちがってない。


「智ぃ」


やや声を張って呼びかけた。漫画みたいに肩が浮きあがったかと思うと、ものすごい勢いでこっちにふり向むいたから笑った。


「びっ、 くりしたぁ、なんだおまえか」

なんだとはなんだ、とはこのこと。

「なにしてんの?」
「なんも」


さっきまでとおなじ姿勢にもどると、言葉とは裏腹にまたなにかに集中しはじめた。すぐそばまで行って、横から手元をのぞきこんだ。



目と口だけが動いて、声にはならなかった。



智は絵を描いていた。
大学ノートくらいのそれほど大きくないスケッチブック。たてにしたりななめに寝かせたり、指先でなでてぼかしたりしながら、1本のえんぴつだけでそれぞれの花の濃淡をあらわした。


絵のことはわからないし、そんなふうに見えるのはおかしいかもしれない。でもそう感じた。目の前に咲く生きた花を紙の上に写しとっているのに、智の手から描き出された花のほうがもっと自由で、鮮やかで、静かにふつふつとエネルギーを放っていた。


スケッチブックの上。
風に吹かれて花びらを揺らす灰色の花。


しばらくそのまま、智の真横に立って花を見おろしていた。時間が止まったみたいにずっと。永遠にそこで眺めていられると思った。


「きれい」


ようやく口から出たのがそれ。
えんぴつをにぎる智の手。おなじ体勢で、スケッチブックと花とを交互に見続ける。落ち着かねぇから座れ、と言われたから、リュックを降ろして体育座りして眺めた。少しあいだをあけて。


「わわ、ちょっと、アリ登ってきてるよ」
「んー」


智の腕でそろそろと右往左往していたアリは、指先を伝ってスケッチブックへと降りると、持ち主に吹き飛ばされてどこかへいってしまった。


「サンキュ」


???
サンキュ? 脈絡もなく言われて、一瞬なんのことかわからなかった。少し考えて、さっきの" きれい "に対するお礼の言葉なんだと気づいたけど、自分がその言葉を口にしたことすら忘れていた。


ゆうべはベランダで寒いと感じたのに、さえぎるもののないこの場所で日射しをうけて、すぐに肌がじりじりしてくる。いつからここにいるのか、智の額からこめかみにはうすく汗がにじんでる。


「暑くないの?」
「暑い」

「…これのむ?」


帰り際に潤くんがもたせてくれたペットボトルの飲み物。横から見えるように差し出すと、低くはっきりした口調で言う。


「和、頼む、一生のお願いだ」
「……え、…なに?」

「あけてっ」
「は?」


手はなせない、あけて。
ちいさく言い直される。…なんだよもう。身構えて損した。ふたをまわすと勢いよく炭酸が抜ける音がして、はい、と手元にボトルを寄せた。


サンキュ、と手にしたとたん3分の2くらいを一気飲みした。口をはなすと  ゲッッフ  と特大のゲップをかまされて、おなじように飲んでいた俺は口にふくんだ半分くらいを吹き出した。


「うわ、おまえきたねーなー」
「……誰のせいだよっ」


とっさにスケッチブックを避けただけほめてほしい。炭酸が鼻とのどの奥を刺激して咳こみ続けた。わりわり、と半笑いでまったく気持ちのこもってない謝罪のあとに背中をさすられた。


俺のどかわいてたんだなぁ、と智は言った。
いま思い出したみたいに。


「いつからここにいるの?」
「……わからん。さっきまで寝てた」

「え、ここで寝てたの? …虫いない?」
「寝てみろ、気持ちいいぞ」












芝生で寝る人。
この季節になるとよく見かける。あんなことできないって見るたびに思ってたけど、ものは試しに。リュックを枕にして花壇のほうに頭を向ける。おそるおそる体を横にして、腕を広げて目を閉じた。


あたりからだんだんと、
音が消えて少なくなっていく気がした。


風が吹いて、木々や葉っぱがゆれてざわめいて、草の匂いがするし、心なしか呼吸が楽な気もする。遠くで子どもたちの遊ぶ声、隣の智の気配。


「けっこう気持ちいいかも」
「ほらな」


目をあけると、視界のすみにビニール袋をさげた親子が見えた。なにやらもめてる。芝生を横切ると花壇のそばにあるベンチに座って、とたんに娘は父親の言動にことごとくケチをつけはじめた。


勉強してるか? と聞けば、
してるって、お父さん見てないじゃん、とか。

父親の飲み物に残った氷の音にも、
それやめてジャラジャラうるさい、とか。

軽いスキンシップのつもりでまわした腕にも、
やだ 汗つくからさわらないで、とか。


会話から察するに小学校入学したての娘。その壮絶なクレームにさらされるお父さんがかわいそすぎて、俺も智も笑いをこらえて、声がもれないように腕で顔面をガードするくらい必死だった。


「和やべーっ、あの娘めっちゃこえーっ、さわらないでとかひでーだろ? 言うか父親に??」
「やば、お父さんぜんぜんしゃべんなくなっちゃったっ、泣いたらどうする?なぐさめに行く? 行く?」

「バカなんてなぐさめんだよ? " お父さん、泣かないでください、僕たちがそこのコンビニで汗ふきシート買ってきますから " って言うのか? 殴られるぞ」
「ムリ、ぜったい殴られる、100%バカにしてるそれ」


智が情感込めて言ったセリフによけい腹筋が痛くなって、あっちまで聞こえないのをいいことにふたりで散々お父さんをいじり倒した。


なんとか無事に笑いこらえると、短い時間でずいぶん体力を消耗した気がした。腕をといて智を見ると、おなじようにこっちを見て、笑ってる。


「なに?」


聞いてもなにも言わない。ふいに手をのばされて、智の指が俺のくちびるにふれた瞬間、なにかがよぎって顔をそむけた。


「草食ってるぞ」














散歩するべ。
スケッチブックを閉じて立ち上がった智は先に歩きだしたけど、俺はまだ呆けたままでいた。


札幌中から集まった。そう思えるくらい犬の散歩をしてる人たちとすれちがう。石山通りを越えて資料館まで来た。大通公園の西側のいちばん奥、この場所へ来るのははじめてだった。


右側から敷地内に入っていくと、まだ桜が残ってる。どこからともなくけたたましい鳥の鳴き声がして、松の木の中をのぞきこんで智が言った。


和、うぐいすだ。


「うぐいす? うぐいすってあんまり鳴かないんでしょ? ちがくない?」
「鳴く。去年もここで聞いた。おととしも。おまえも聞こえてるだろ?」

「聞こえる。聞こえてはいるけど……、これほんとにうぐいす? 鳴き方が異常にすごいよ…」
「いるって」


なにがどう見えているのか、どこへ視線を向けているのかわからない。丸みのあるきれいな形に刈られた松の木の中を、じっ、 と静かにのぞきこんで智はもう一度つぶやいた。いる。


「ほんとー? いるー? これほんとに鳴いてる? スピーカーかなんか仕込んでるみたいにずっとホケキョホケキョっておかしいよ」


智におちょくられてるのかな。そう思ったけど、あいかわらず途切れることなく、うぐいすらしい鳴き声は聞こえ続ける。


「見ろってほら、すぐそこにいる」
「…わかんない どこ? ぜんぜん見えないよ…」


立ち位置を変えたり下からのぞきこんだり、いろんな角度から松の木の中のうぐいすを見つけだそうと目をこらすけど、枝と細い葉がわずかなすき間をあけて密集してるだけで、鳥なんて見えない。


「和、ここだ」


そう言うと俺の腕を引いた。リュック越しに、二人羽織みたいにぴったりと智の前に立たされて、両手でうしろからガッシリと頭を固定してきた。


「まっすぐ見ろ」


頭の中に響く智の声。     あ、


「いた」


目が合った。いた。うぐいすだ。
ほんとにいた。


「な」
「うん、いた」


どうして見つからなかったんだろ。
俺の目の前に、すぐそこに、ずっといたのに。
智の目線になったら、見えた。


ふりかえって智を見た。
笑ってる。


「鳴いてるだろ?」
「うん、鳴いてる、すごい。  かわいい」


はじめて見た。
あんな小さな体で、どこからこんなにって思えるくらい大きくはっきりと響く鳴き声。不思議なことに、ホーホケキョ、の部分はあまり言わない。


ホケキョホケキョ、ホケキョホケキョ。
そこだけを不自然なほどくり返した。


うぐいすはあまり鳴かない。ずっとそういうイメージでいたけどちがうんだ。本物は大安売りみたいに、いやもういいんですけどって遠慮したくなるくらいに鳴き続ける。ぜんぜん知らなかった。


智はまだ松の木の中をのぞいてた。
去年もおととしも見たうぐいす。
それを今年も見たくてここに来たんだ。


かわいいだろ? って、にこにこ笑った。
まるで自分のうぐいすみたいに、誇らしげに。






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