「なんであんなことしたの?」
「…あんなこと?」
寮まで送ると智が言ってくれたのに。
うれしいとか、そんな気持ちすこしもない。
今まで感じたことないものが湧きあがる。
「相手にケガさせたかもしれないんだよ?警察沙汰になったら、さ、智が、仕事クビになったかもしれないんだよ?」
「…かもな。わからん。考えてない」
わかってるよ。あの状況でスタンガン持ってるヤツ相手にそんなこと考えない。自分は役立たずで助けてもらったくせに、役に立たない正論言ってるだけで吐き気がする。俺がすることは、俺が言うことはいつもみんな裏目に出る。いつも、いくつも後悔する。
智に誕生日プレゼントを渡したい。
それは俺が望んだこと。それだけのために関係ないみんなを巻き込んだ。そもそも最初にアイツの怒りを煽ったのも俺。悪いのはぜんぶ俺。だから自分はなにをされても仕方ない。でも、智には悪くなってほしくない。
智の手はパンを焼くから。絵を描くから。
智の手から生まれてくるもの。
それは、幸せなもの。
あまくて やさしくて やわらかい
その手で、人に暴力をふるおうとした。
俺を守るために、それだけのために。
なんのためらいもなく。
俺がいると智に迷惑がかかる。
だめだ、俺。智と会わないほうがいい。
いっしょにいないほうがいい。
「…俺たち会わないほうがいいか?おまえ大事なときなのに迷惑かかるだろ」
俺のこと見ないで、智が言った。
皮肉。智がなに考えてるのかぜんぜんわかんないのに、その意見だけはおなじなんだ。俺の心の声が聞こえてるみたいに。
“ かず ”
まーくんから2文字のメッセージ。
なぜか、背筋が寒くなった。
「……ごめん、俺行かなきゃ…」
今すぐここから逃げたかった。最後まで話すのがこわくて、結論も智の返事も待たずに来た道を引き返した。会わない。歩いてるだけなのに息が切れる。会わない。会わない…。くちびるが、手足が、だんだんと痺れてくる。
会わない
それって、どういう意味なのかな
翔くんの家のドアに鍵はかけられてなかった。ふたり分の靴が乱雑に転がってる玄関が異様で、迷ったけど、ふたりがいるだろう先へ進んだ。
「……まーくん…?」
リビングへつづくドアは半開きだった。
そこから灯りと、声が漏れ伝わる。
「“俺のせいでごめん”てなに?謝るとこそこじゃなくない?」
ソファに座る翔くんの横顔はうつろで、そんな翔くんを見下ろすようにそばに立つまーくん。抑揚のない口調にまた背筋が寒くなる。どこか機械的な動きで翔くんのかばんから勝手に手帳を抜きとると、テーブルの上に無造作に放り投げた。
「まだ持ってたんだ、その写真」
開かれた裏表紙に収められたもの。
それをただ見つめる翔くん。
「気づいてないと思ってた?翔ちゃんがあいつと会ってるの俺知ってるよ?俺と待ち合わせてる店であいつに会うってそういう意味?いいかげん早く気づけってこと?」
耳を疑う。
「ムカシノオトコとおなじモノよこすとか意味わかんないって。マジでどういう神経してんの?」
耳を疑う。そんな言葉じゃ、足りない。目の前で起こっていることが現実なのかそれすら疑った。恋人との待ち合わせを鼻歌まじりで心待ちしていた姿。あれはついさっきのことなのに。
「ずっと俺に嘘ついて会ってたんだ?」
「…嘘ついてない」
「嘘だよ、じゃなんでさっきあいつがいたの?」
「知らない。偶然だ。嘘ついて会ったことなんてない」
かすかなため息。
なにかを諦めるように、翔くんが笑った。
「いいよ、信じなくて」
「、信じてるよっ!!」
感情まかせに恋人を怒鳴りつける。
彼のそんな姿をはじめて見た。
「信じてるって何度も言ってるじゃん!俺は、俺はずっと翔ちゃんのこと信じてるのに、なのに、…翔ちゃんが俺のこと裏切るんだろ!!」
肩で息をする後ろ姿。俺は約束してもダメになるのに、なんであっちは偶然会えちゃうのかな。そう言ってスマホを握りしめて、落ち込んでたいつかの背中と重なる。
「そんなにあいつが大切なの?」
連絡して会ってた。嘘をついて会ってた。
そのほうが、まだ、
「……大切だよ」
救いがあったのかもしれない。
「雅紀はなにも知らない。あのころ俺がどんなに苦しかったか、あのころ潤がどれほど俺を救ってくれたか。……それは雅紀にはわからない。ぜったいわからない」
うつろだった表情はおだやかになった。誰にも踏み込めないつよい意思を帯びた言葉を口にすると、そのときはじめてまーくんを見上げた。
「大切で悪いか?」
「……もう、隠そうともしないんだ?」
翔くんはなにも言わなかった。
「そんなに大切ならあっちもどれば?ほんとはずっとそうしたかったんでしょ?」
……どうせ俺、あいつの代わりなんだから…
その声はかすれてた。ふらつくように力無くポケットに手を入れる。金属の触れる音。宝物をその手に一度つよく握りしめると、渾身の力を込めて恋人に向かって投げつけた。
それでも、翔くんはなにも言わなかった。
パーカーの背中を掴んで引きずるように玄関を出ると、無理矢理エレベーターに押し込んだ。この人はまーくんじゃない。いつも笑顔で、いつも明るくて、いつもご機嫌で幸せそうに翔くんのことを話す。あのまーくんとおなじ人じゃない。
「なんで翔くんにあんなこと言うんだよ!信じなかったらバチ当たるんじゃなかったのかっ!」
外に出たとき彼は靴をはいていなかった。コートもリュックもなにも持ってなかった。なにをみて、なにをかんじて、どこにむかっているのか。もう誰にもわからなかった。
その足がいつしかふいに、止まった。どこかにつながって支えになっていたはずの糸が切れたみたいにその場に両ひざをついて、しずかにゆっくりと、頭から地面になだれ落ちていった。
転がっていた割れたビール瓶の欠片で額を切って、涙と血でぐちゃぐちゃになってそれを拭おうともしない。すれちがう人たちは遠巻きに俺たちを見て不穏な顔をする。もうまともに呼吸すらできてない。嗚咽をもらしながらただずっと、ずっと、名前を呼びつづけてた。
なんで俺が泣いてるのか。
なんで俺が悔しいきもちになるのか。
自分でもバカみたいだと思った。
毎日毎日、ただ懸命に生きてるだけ。相手を疑うきもち。たったそれだけのことでこんなむごい姿を人前にさらして、どうしてこれほど苦しまなきゃならないのか。
『しんどいぞ、好きになるのも』
潤くんが言ってた。
俺はなにもわかってなかった。
好き。それは幸せなものだと思ってた。
自分じゃない誰かのはずっとそう見えた。
今はちがう。
こんなはずじゃなかった。
こんなに苦しくて。苦しいばっかりで。
好きにならなければ、どんなによかったか。
「……神様…」
*****