これから、地球がどんなに変わろうと、
美しき心は、
全ての障害を超えて、私たちを幸せな世界に運んでくれることでしょう。
それは、肉体がある間だけではなく、
肉体を脱いで、魂の世界に戻った時でさえ裏切らないことでしょう。
・知識や学歴がなくとも、
・お金や地位などなくとも
・健康でなくとも
そのような物は、
肉体がある間の短い期間の、
目的を達成するための道具でしかないのですから
永遠の魂にとって、何の障害にもなりません。
むしろ、それらに執着し、かさに着て
無意識のうちに、心を汚していくよりも
無意識のうちに、マウンティングし、人を支配しようとするよりも
何も持たなくとも、
馬鹿だと人に蔑まされようとも
良寛さんのように大愚であって、
心美しき人の方が、どんなに光り輝く魂を持つことでしょう。
さて今日は小林正観さんのお話を、参考にして書きたいと思います。
それは、平凡な生き方かもしれません。
誰にも、尊敬もされなければ、
注目もされない生き方かもしれません。
ですが、もしかしたら神々に一番近い生き方かもしれません。
<転載開始> 転載元
まわりの方々に喜ばれる喜びは、
自分のことで、自分が喜ぶのとは
比べられないほどの大きさです。
人は、人の間に生きていることからこそ「人間」と呼べます。
人間として生きるということは、
自分のためではなく、
他に存在する者(物)のために
生きるということ。
人間の身体の中には 37兆個もの細胞があります。
その一つ一つに、個別の意識があります。
体の中に目を向けてみても、
肺や心臓、肝臓、腸など
自分のためにだけに存在する臓器は
何ひとつありません。
みな体内の、他の臓器や細胞を生かすために
働いています。
まさに、ひとつの宇宙が人間の体の中に、凝縮されている
と言っても過言ではありません。
ですので、
人は、この世に生れたからには
自分が、
いかに目標に向かって歩み、目標を達成するか
ということではなく、
いかに周りに喜ばれる存在になるか、
ということがとても大切です。
たとえば頼まれごとをやってあげて、
相手がにっこり笑って
「ありがとう」と言ってくれたとき、
本当の「人としての喜び」が湧いてきます。
喜ばれることが、
人間の最も根源的な幸せです。
人に喜ばれることをしてみましょう。
その時、
いちばん楽しくて、幸せなのは
実は自分自身なのではないか、
そう思えるに違いありません。
<転載終了>
・大きな成功を成し遂げて、人々に尊敬される人
・仕事のバリバリできる人
・平凡な人間だけど、何時もにこにこ笑っていて、困っている人がいれば、
何はさておき駆けつけて、一緒に悩み、傍に寄りそう人
・仕事は、それほどできないけれど、人の喜びを共に喜び、
人の悲しみを共に悲しんでくれる人
皆さんは、どちらの生き方が理想ですか?
自分が、何かを人にして差し上げた時に、
誰かから、にっこり笑って「ありがとう」って言われると、
本当に幸せな気分になれますね。
もしかして、氣難しい顔をして
人を寄せ付けないような人も、
何時も、身勝手で、人の上げ足を取っているような人も
その人の内側の良き部分、神さまの部分を
見つけて差し上げて、
「ありがとう」の一言をかけた途端、
魔法のように、頑なだった心が溶けだして
良き人に変わってしまうかもしれません。
私たちは、誰でも本当は、
・人に認めてもらいたいのです。
・「ありがとう」と笑顔を、向けてもらいたいのです。
宮沢賢治
最後に、宮沢賢治の
「雨にも負けず」をご紹介して終わりにします。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに でくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい
※画像はネットからお借りしました。