今日は「努力しない生き方」というお話です。

 

この生き方は、

現在の大きな時代の節目のただなかに生きる私たちにとって

 

生きる道の方向を指し示してくれています。

 



私たちは子供のころから

「努力しなければならない」


そう教わってきました。

 

 

しかし、

 

例えば、子供が不登校になったり、病気したりすると、

 

途端に不安に陥り、右往左往してしまいます。

それはまるで
・競う
・争う
・比べる


修羅の世界ですね。



それに対して、

 

・競わない、

・比べない、

・争わない

 

生き方と言うのもあります。

今日は小林正観さんのお嬢様、

慶子ちゃんのお話をご紹介します。


慶子ちゃんは知的障害で生まれてきました。



<引用開始> 引用元

ニッコリ笑っていてくれるだけで、

 

まわりを温かくし、光を発している知的障害の長女。


ここに人間の価値がある。



結婚して三年目にやっとできた長女は

 

知的障害児で、

努力やがんばることができません。

二十七になりますが、知能でいうと七歳くらいです。

日常生活にはなんの問題もありませんが、

 

自分の名前を漢字で書いたり、

足し算、引き算をしたりなどはできません。



しかし、この子は、自分より立場の弱い人、

怪我をしている人を見れば、

 

駆け寄って『大丈夫?』と手を貸すような子どもで、

 

教えられることがたくさんありました。

小学校四年生までは

運動会の徒競走が五十メートル、

五年生と六年生は百メートルでした。

 


長女は小学校五年生まで、

徒競走はずっとビリでした。

染色体の異状により、

 

脳細胞や体の筋肉が

普通の人の三分の一くらいしか発達しないため、

 

ものを持ったり、走ったり、歩いたりなど、

 

なにかをする能力は

 

三分の一くらいしかありません。



そのため、

走るというより速歩きという感じです。

小学校六年生のとき、

 

運動会に行く前、なぜか妻がとても楽しそうでした。

『今日はいつもより楽しそうだね』と言うと、

 

妻は『初めて徒競走で

ビリじゃない姿が見られるかもしれない』という返事。


どういうことなのかと尋ねたところ、

 

次のような話しでした。



同級生の女の子が、

運動会の一週間前に捻挫をして、

包帯ぐるぐる巻いている状態だったそうです。


誰もが徒競走に出ないだろうと思っていたところ、

 

『どうしても走りたい』と言い、

困った先生は、最終組で長女と走らせることに。

健常児六人+捻挫した子と長女の

合計八人で走ることになりました。



捻挫して、包帯を巻いている子と走ることになり、

 

『長女が生まれて初めてビリではない

姿を見られるかもしれない』と言い、

 

ニコニコ笑いながら朝、

二人で手をつないで出かけて行きました。

夕方、ニコニコして帰ってきたので、

 

『どうだった?』と尋ねると、

 

満面の笑みで、

『それがまたビリだったのよね』という答え。



すいぶん楽しそうな顔だったので、

経緯を教えてもらいました。

健常児六人が五十メートルくらいのところを走っているとき、

 

長女は十五メートルくらいの場所を走っていた。

捻挫をした子は十メートルくらいの地点を走っていたそうです。




長女は、後ろを振り返り、

気にしながら前を走っていたところ、

 

捻挫をした子が『キャッ』と言って転んでしまいました。

それを見た長女は『大丈夫?』と言って逆走し、

 

その子を助け上げ、肩を支えながら、

一緒にトコトコと走ります。



ゴールする、前に捻挫をした子の肩をポンと押し、

その子が先にゴールしたと、妻は言いました。

九十メートルくらいのところで、

 

係のお子さんがゴールテープを取り直して張ったそうです。

父兄が二千五百人くらい来ていたそうですが、

 

みんな立ち上がり、

九十メートルあたりからは

 

拍手をして応援してくて、

 

感動的な光景だったと。



長女は捻挫した子を助けながら走ったにもかかわらず

最後のところで、自分は先に行かず、

 

彼女を先にゴールさせたということです。

妻が『それでまたビリだったのよねぇ。

そういう子どもだもんねぇ』と笑顔で言うのを、

 

私は苦笑いして聴いていました。

しかし、その苦笑いしていた顔が、

だんだん真顔に。



私は、父親から

 

『努力しないやつはバカだ、クズだ』と

 

何十万回と言われ続けて育ちました。

『どうもそうじゃないみたいだ』と思いながら生きてきたものの、

 

長女の生き方が

父親から教わったこととはまったく違い、

 

衝撃を受けました。



私にとって人生観を根底から覆すような出来事だった。

そのため、一週間考えました。

一週間考えて出た結論は

 

『長女の生き方が正しい』

 

というものでした。

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ただ、私の魂がどちらの生き方を喜んでいるかと考えたときに、

 

長女の生き方が本質だと思い、

 

喜んでいる自分がいることに気がつきました。
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私たちは、

 

小・中・高・大学・大学院、

会社、社会、家庭というすべてのところで、

 

・努力しないやつはバカだ、クズだ

・競いあい、比べあい、人より抜きん出ることが立派な人間である

・負けてはいけない

・成功しなければならない

 

と教えこまれてきました。



しかし、

 

『人間の価値は、それらとは違うところにある』


この新しい価値観を

長女が教えてくれたのです。

長女は、いつもニコニコしていて、

 

私が家に帰ると、

眠い目をこすりながら

 

『お帰り』と言って玄関先で迎えてくれます。

いつもニコニコしていて、

楽しそうに、幸せそいうに暮らしています。

『努力しないやつはバカだ、クズだ』という価値観とは

 

まったく違い、



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ただそこにいるだけで、

まわりの人に幸せを感じさせてくれる存在です。
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この子が笑顔でニコニコしているだけで、

まわりをとても温かくし、和やかな空気にします。

小学校を卒業するとき、

 

校長先生が次のようなコメントを書いてくれました。



『慶子さんの、笑顔とありがとうという言葉は、

 

学校の中で最高のものでした。

 

これほど笑顔とありがとうの言葉が

似合う子どもはいなかった』と。

私は父親から

 

・がんばらないヤツはバカだ、クズだ

 

と何十万回と言われて育ってきました。

 

長女が生まれてこなければ、

ずっとその価値観で過ごしていたでしょう。



しかし、

 

わが家に

知的障害児の子どもが生まれてくれたおかげで、

 

人間の価値は、

 

努力すること、

がんばることではない

 

と教えられました。

長女は、ニッコリ笑っていてくれているだけで、

 

まわりをとて温かくし、光を発しています。


ここに人間の価値があると

教えに来てくれたのです。

<引用終了>


ブータンの子供たち


2つの道のお話でした。

良い悪い、

正しい、間違いと言うことは無いと思うのです。


人それぞれの人生ですから、

 

ある方は、

必死に努力し勝ち抜いて、

 

人より地位や名誉、

お金を得る道が好きかもしれません。



ですが、いつも心が追い詰められ、


・もっともっと努力しなければ

・努力をやめたらおしまいだ

・一回失敗したら「負け犬だ」


などと思ってしまったら、

 

きっと神さまから頂いた

純粋な魂が濁ってしまいますね。



人と競わずとも、


いつも精神的に追い詰められて

「もっと上へ」と

 

馬車馬のごとく

精神的にゆとりのない生き方でなくとも、

 

神さまは私たち全ての人に

 

生きる道を準備してくださっています。




それは私たちが生まれる前に、

神さまと一緒に決めてきた道です。

私たちは小鳥たちのように、


運命の流れに身を任せ、

 

全てに「ありがとう」

 

感謝して生きていれば、

 

上手に生きられるようになっています。



・お金持ちだから、

・地位や名誉があるから、

・大きな外車に乗っているから、

・広い家に住んでいるから、

・偏差値の高い学校を出たから・・

 

幸せなのではないと思うのです。


私たちの本当の幸せは、



ブッダが説いた般若心経の教えのように

全ての自分に起こってくるコト。

 

良いことも悪いことも、肯定して受け入れ

そして感謝することで、得られるのかもしれませんね。




自分に起こってくる全てのコトは、

 

私たちが生まれる前に

 

神さまと一緒に、

私たちの魂の成長のために、

 

一番、必要なものとして、

 

人生の必要な時期に起こるように。

 

自分で人生に組み込んで、

この地球に生まれてきたのですから。

 

 

たったひとつのたからもの

 


※画像の一部はネットからお借りしました。