今日は、「置かれた場所で咲きなさい」の著書で有名な、

渡辺和子さんの名誉息子であり、放蕩息子の保江邦夫さんの著書

「置かれた場所で咲いた渡辺和子シスターの生涯」

からご紹介します。


保江 邦夫(やすえ くにお)さんは、日本の理学博士。


専門は数理物理学・量子力学・脳科学。岡山県出身。
ノートルダム清心女子大学 大学院人間生活学研究科人間複合科学専攻教授。同情報理学研究所所長。

また臨死体験者としても、よく知られています。



この本の中で、保江さんは、渡辺和子さんのこんな言葉を紹介しています。

 

非常に強い言葉です。


<引用開始>

人間に上下はありません。

しかし、人格に上下はあります。


これは、渡辺さんが半世紀以上も尽くされた大学、
そしてそれよりも長い年月を過ごされた修道院、

その中で、ご自分の社会的交流の範囲において、
 

平気で人を裏切ったり、だましたり、

あるいは二枚舌を巧みに操って、人を落としめてまで
のし上がろうとしたりする愚か者たちに、狙われなかった日は皆無でした。


そんな亡者たちとの無益な闘いに明けれる、

過酷な境遇に身を置くという、神様が与えてくださった試練の中にありながら、

シスターは人々を勇気づけ、元気づけるというご使命を、

片時も忘れることはなかったのです。


そして、だれの助けもないまま、おー人で愚か者たちに抗しているとき、

シスターから放たれたのが、 この言葉だったそうです。

 



そのときのシスターのお顔は常のような、

どこまでもお優しい聖母マリアの表情ではなく、

まるで悪を射貫くような 強いまなざしで

遠くを見据えていらっしゃったことを、はっきりと覚えています。



「置かれた場所で咲きなさい」に代表される、

 

人を勇気づけるシスターの言葉の数々は、


「苦を乗り越えて心安らかな境地に至った者」が発したものではなく、

「今まさに苦境にあり続ける者」が紡ぎ出したものだったのです。

そんなシスターの、受難の連続だった生きざまのほんの一部だけでも、
シスターのおそば近くで、5年にわたってお手伝いさせていただいてきた僕が

語り継いでいかなければならないと、

シスターの90歳の誕生日に決意しました。

 



それが、シスターから「名誉息子」、あるいは単に「息子」、
ときには「放蕩息子」と親しく呼んでいただけることもあった、


そしてシスターのことを「名誉母親」と呼んで、
自分に必要なときにだけふらりと学長室や理事長室、

さらには寺の本革修道院のお部屋にまで押しかけることを
笑って許していただいていた、この僕にしかできないことであり、 また義務でもあるのですから。

<引用終了>

 



私も
これを見た時、強い衝撃を受けました。

渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」は、

まさに悟りの境地に渡辺さんが達せられたときに、
過去の出来事を振り返り、書いた本だと思っていたからです。

 

保江邦夫さんの著書には、当時の

凄まじい状況も書かれています。



考えが甘かったです。

まだ当時は、愚か者たちとの戦いの中、その真っ最中だったのです。

保江さんの言葉を借りれば、

まさに世間の中の矛盾と、

無情の中で戦っている最中の言葉であったことがわかります。



保江さんは、こうも仰っています。

人間は完全に平等であり、

どの命も等しく大切な命であるのは事実です。

しかし、「それでも人間社会から差別や苦しみ、
さらには争いやいさかいが絶えないのは、人格に上下があるからだ」

というのが、シスターのお考えでした。



シスターの ように、多くの人々の道を照らすことのできるような高い人格を有する人がいる半面、


低い人格を持つ人もまた社会のあちこちに巣くっている、それがこの世の真理なのです。

そんな世の中に巣立っていく学生たちが、道を見失うことのないよう、

シスターはこの言葉を人生の指針とするように 教え導いてくださっていました。




それでは、ここでブッダの言葉(卑しき人)をご紹介します。

わたしが聞いたところによると、
あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、

<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。

 

そのとき師は朝のうちに内衣を着け、

鉢と上衣とをたずさえて、托鉢のためにサーヴァッティーに入った。

 

 

そこでブッダは言われた。

・怒りを抱くもの、

・恨みを抱くもの、

・或いは、いつわりの善を行うもの、

・邪まの見解のあるもの、

・へつらいの心あるもの、

 

かかる人は賎しきものであると知るがよい。

例え、いかなる生き物であろうとも、

 

・生きとし生けるものを害するもの、

・生きとし生けるものに慈しみ無きもの、

 

かかる人は賎しきものであると知るがよい。

 



村においてあるいは林園において、

他の人々の所有に属する財物を与えられざるに、盗るがごときもの、

 

かかる人は賎しきものであると知るがよい。

・己を高く褒めそやし、

・他人を低くけなし落とし、

・高慢のために心賎しくなれるもの、

 

かかる人は賎しきものであると知るがよい。




・人はその生まれによって賎しきものであるのではない。
・また、人はその生まれによって聖なるものであるのではない。


・人はその業(行為)によって賎しきものとなるのである。
・また、その業によって、聖なる者となるのである。



このブッダの言葉は、

人間は生まれながらにして貴賎があると説いた僧に対する

猛烈な批判の説教として説かれたものです。

まるで、イエスの「山上の垂訓」のようですね。



貨幣、金融の仕組みを牛耳られた現代社会のような環境の中では、

私達もおかしくなりがちです。

私達一般の人々の生活は苦しく、

 

もう働き始める前から借金(奨学金、年金、社会保険など)

を背負って社会生活をスタートさせるようなものです。

ですので、最初から諦めや、焦燥感・不安感に襲われ、

どうしても自分のことしか考えられなくなりがちです。

 



本当は一人一人、心優しき人なのに、

 

あまりに生活が苦しいために、

やがて生活が狂いおかしくなってきてしまいます。

 

もしくは精神的に参ってしまい、病気になってしまいます。

また愛する家族よりも、仕事、お金となってしまいます。


何故なら、そうしないと生きていけないと、

恐怖心と不安で私達の心を縛りつけているからです。


ブータン


私達が、そこから解放されるには、

 

ブッダが言うように「賤しき人」にならない。

 

・人の悪口を言わない。

・人を呪い続けない。

 

その卑しき心でいる限り、

いつまでも自分の周りに悪臭を漂わせてしまうことでしょう。


 

少なくとも自分自身は、

そうはならないと心に決めて行動するしかありません。


世の中の流れも、大きくそちらの方向に舵を切りました。

その波に乗るのか、

今までのように恐怖と不安に縛られた人生を歩み続けるのか?

私達の心ひとつです。

 

 

 

 

※画像はネットからお借りしました。