マザー・テレサの修道会では、

シスターたちの仕事の一つに、

空腹の人たちへの炊き出しがあります。

パンとスープを、

列を作って待っている人々一人ひとりに渡す仕事です。



何十人、時には百人以上の人々に

配り終えて戻って来るシスターたちに、

 

マザーは、その労をねぎらいつつも、

 

次の問いかけを忘れませんでした。

「あなたたちは、

 

受け取る一人ひとりに

ほほえみかけたでしょうね。


ちょっと手に触れて、

ぬくもりを伝えましたか。

 

短い言葉がけを

忘れはしなかったでしょうね」


 

このようにすることは、

渡す側にとっては、

きっと面倒なことだったかもしれません。


でも、受け取る人達にしてみれば、

 

その日、初めてもらえた

 

人間らしい扱い

 

だったに違いないのです。



ただ単に、給仕をするだけであれば、

それはロボットでも良いかもしれません。


むしろ効率的にするかもしれません。

でもロボットにできないこと、

 

それは、

「生きていてもいなくても同じ」

と考えているホームレスの人たちに、

「生きていていいのですよ」

というメッセージを、

 

ぬくもりと優しさ

 

伝える頬笑み、

そして短い言葉がけです。

言葉に、

そこに愛がこめられている時、

 

大きな力が生まれます。

 

神様のエネルギーが宿ります。



マザー・テレサは言っています。

「私たちには偉大なことはできません。

 

しかし、

 

小さなことに、

大きな愛をこめることはできるのです」




私達は、とかく、

 

大きなこと、目立つこと、

人の称賛を浴びるようなこと、

人が羨ましがるようなこと、

 

そんなものを得たいと思いがちです。

ですが、神様にとって、

そんなことはどうでもよい事。

 


神様が見ていらっしゃるのは、

 

私達が物事を為す時の動機。

そして

その行為に「愛」がこもっているか

どうかだけです。



神様は、私達の魂をより輝かせるために、

 

様々な出会いや

 

病気やケガ、貧困、出会いと別れなどの

環境を用意して下さっています。

その対象は

 

夫婦であったり、

 

親子であったり、

 

会社の同僚であったり、

 

友人であったり様々です。

その様な舞台装置、

 

配役を用意して下さっているのは

 

全て、私達がその舞台を通じ、

 

私達の内にある

 

「愛」を表現するためです。



ですが、私達は生きている最中は、

 

その舞台に精一杯で、

 

その舞台のテーマ

 

「愛」について思いも及びません。

その結果、

その舞台を盛り上げるために

用意された出来事が、

 

嫌なことや苦しい事であれば、

 

不平不満を口にし、



ドラマを盛り上げるために

 

準備された配役が気に入らなければ、

 

他の人の立場を嫉妬したり、

 

自分の立場を呪ったりします。


もちろん、そう言った感情を味わうためにも、

 

神様は、その様なシナリオを用意して下さいますが、

 

私達は、何時までも、そこにしがみ付き、

 

執着してしまっては、元の木阿弥です。



感情を味わったら、

 

そこにしつこく固執することなく、

 

頭を切り替えて、

 

次の場面に全力投球したいものですね。

そして全力投球する時、

 

「今」という時を

 

大切に生きる時に

 

大事なキーワードが

 

「愛」



愛を持って、考え、行動したいものですね。

私達が外に向かって


・言ったこと
・考えたこと
・起した行動


は全て、

 

巡り巡って自分に帰ってきます。

 

これは宇宙の法則ですから、

 

正確に起こります。

それであれば、

 

言うこと、

 

考えること、

 

行動する事、

 

全て思いやりと

優しさに満ちたものにしたいですね。

それが全部

自分に帰って来るのですから。

 

 

たったひとつのたからもの

 

 

 

生きている、

みんなが 幸せでありますように。

笑顔でありますように。

助け合って 生きて行くことができますように。

お互いさまの気持ちで 生きて行くことができますように。

随神の道(かんながらの道)を 歩むことができますように。

誰一人として、
孤独で寂しい瞳をしている人が居ませんように。


皆さんと、皆さんのご家族が、そして、お友達が、
 
お幸せでありますように。
 
輝く笑顔でありますように。

 



※画像はネットからお借りしました。