今日はマザーテレサに、

初めてイエスが現れた時のことを

お話したいと思います。

 

ブッダの時代の僧団(サンガ)の人たちや、十大弟子、

 

そして時代を下り、空海や親鸞などが、

 

同じソウルグループに属し、

共に独自の切り口から

人類の精神性の向上のために働いて下さったように、

 

空海

 

イエスや、その十二使徒、

 

そしてマリアマグダラのマリアなども

 

また別のソウルグループを形成し、

 

ブッダ達とは異なる方法で

 

私たち人類のために、働いて下さったようです。

 


1923年に撮影された少女時代のマザーテレサ(左)

 

マザーテレサの魂も

若い時から既にイエスによって見出されていました。

 

マザーがイエスと初めてお会いしたのは、

 

1946年9月10日

 

彼女がダージリンに行く列車の中でした。
 

"I THIRST."(私は渇いている)と言う言葉と共に、

 

十字架につけられ、

息を引き取る直前の

 

イエスの姿がマザーの目に映ったのでした。

 

 

ですが、その時、マザー・テレサは、

 

「イエスが何を語りかけてきたのか、

理解できなかった」のだそうです。

 

そして次に現れたイエスの母マリアは、

 

マザーに、、「はい」と言ってついていきなさい、

と言われたのです。

 

そのため、マザーはイエスの言葉の意味がわからずとも、

「はい」と答えたのでした。

 

ダージリン、ヒマラヤ鉄道

 

<転載開始> 転載元


"I THIRST."(私は渇いている)と言って、

 

十字架につけられたイエスが

なぜ自分の目の前に現れたのでしょうか?

 

祈りを深めていくうちに、

思い出されてきた新約聖書の話に

 

『マタイによる福音書』の一節がありました。
 

イエスは仰いました。

 

image


「あなたたちは、

 

私が飢えていたときに食べさせ、

渇いているときに飲ませ、

旅にいたときに宿らせ、

裸だったときに服をくれ、

病気だったときに見舞い、

牢にいたときに訪れてくれた」といいます。
 
すると義人たちは答えて、

 

「主よ、いつ私たちは

あなたの飢えているときに食べさせ、

渇いているときに飲ませ、

旅のときに宿らせ、

裸だったときに服をあげ、

病気のときや牢に入られたときに見舞ったでしょうか?」と尋ねました。
 

ファティマの聖母


イエスは答えました、

 

「まことに私は言う。

あなたたちが私の兄弟である

これらの小さな人々の一人にしたことは、

つまり私にしてくれたことである」 
 
「あなたが私にしてくれた」

 

すなわち、"You did it to me."という言葉が、

繰り返しマザーの心に響いてくるのでした。

 

この言葉が、

すべての謎を解く鍵、

キー・ワードだということが

しだいに明らかになって行きます。
 


人が「渇く」というのは

肉体の渇きを意味し、

 

イエスが「渇く」というのは、

霊の渇き(愛の欠乏)を意味しています。

 

そして、人は渇きを癒すために「水」を与えますが、

 

イエスは渇きを癒すために

「聖霊」、つまり愛の心を与えました。

 

また、「水」で満たされた渇きはまた渇きますが、

 

「聖霊」で満たされた渇きは

永遠に渇くことがありません。
 


時間を経てマザーは、

 

イエスが自分に何を求めているのか、

ようやく全てを理解しました。

 

しかし、その求めに「はい」と応えましたが、

 

棄てなければならないものの大きさに、

最初の一歩を踏み出すことができませんでした。

 

今のままでも十分イエスに応えていたはずなのに、

 

イエスはもっと違う生き方を求めていらっしゃる。

 


ためらっているマザーに、

イエスは再び呼びかけてきました。

 

これはダージリンに行く汽車の中で啓示を受け、

その意味を理解したあと、

 

行動できずに迷っているマザーに臨んできた

 

イエスの呼びかけです。
 


 

ところで、

マザーが亡くなってしばらくしてから、

 

1947年1月13日に

彼女がペリエ大司教に宛てた手紙が公開されました。

 

そこには、マザーは外部に対して

一度も語ったことはないけれど、

 

超人的な霊感を持ち合わせ、

 

遥か時空を超えて

イエスや聖母マリアと

語ることのできる能力を

持っている人であったことがわかりました。

当時マザーは

本当に苦しい選択に立たされていました。

 

 

イエスと語り、

 

「私を選ばないでほしい」

 

説得しようと何度も試みたといいます。
 
何度も繰り返されるイエスの呼びかけを、

マザーは本当に恐れました。

 

インドの人たちのように食べ、

寝、生活するというスタイルは、

 

彼女の心を恐怖でいっぱいにしたからです。

 

 

マザーは長いこと祈りました。

そして聖母マリアに頼みました。

 

「このような役目を

みんな私から取り除いてくださるよう、

イエスにお願いしてください。」と。
 
しかし祈れば祈るほど、

 

イエスの声は、

より鮮明になって心に響いていったのでした。
 
ついにマザーはあきらめました。

そして「イエスが望むどんなことにでも

私を使ってください」と祈ったとき、

 

再びいつもの声が非常に鮮明に

彼女に呼びかけてきました。

 :

<転載終了>

 

 

以上が、その後のマザーテレサの活動のきっかけとなった、

イエスとの魂の交わりです。


やはりマザーも内なる神さまを通して、

イエスや聖母マリアとお話しすることができたのですね。

 

ですが、そのようなことを決して口外なさらず、

 

宣伝に使わずに、

 

不思議なことで人の目を引くことなく、

 

愛の行為でもって、

人々の精神の成長のために働かれたのでした。

 

 

イエスは、こう仰いました。

 

・どこかの誰かにしたこと、

・みすぼらしいなりをした人にしたこと

・病気の人にしたこと

・身分の低い人にしたこと

・悲しんでいる人にしたこと

・見捨てられた人にしたこと

・嫌われている人にしたこと

 

これら世の中から顧みられないような

小さき人に対して行う、私たちの愛の思い、愛の行為は、

 

全てイエス、

つまり神さまに対して行った行為である。

 

全部ダイレクトに神さまに届いていますよ。 

と言うことです。

 

 

ですから、

 

今私たちの目の前に居らっしゃる人に対する行いは、

 

全ての全てを神さまに見られています。

 

私たちの思い

行いの全部が、

 

自分にダイレクトに帰ってきます。

 

動物の守護聖人 聖アントニオ

 

イエスの言葉によく「悔い改めなさい」と言う言葉が出てきます。

 

これは、人々の、

相手の人の心への関心の薄さ、

無関心さ 

 

それを改めなさいと言うことなのだそうです。

 

マザーもよく仰っていましたね。

 

愛の反対語は無関心

 

であると。

 

その無関心さ、情けの薄さを、悔い改めなさい。

 

神さまの方を向きなさい。

 

人々の心に寄り添いなさいと言う意味で

仰っていたのではないかと思います。

 

 

これは、私が2年前に作った「いのち」という詩です。

 

 

いつから僕たちは過去を悔いながら

生きるようになってしまったのだろう

 

 

いつから僕たちは未来を心配しながら

生きるようになってしまったのだろう

 

 

いつから僕たちは勝ちたいと

人を蹴落とすようになってしまったのだろう

 

 

いつから僕たちは注目されたいと

見栄を張るようになってしまったのだろう

 

 

いつから僕たちはお金だけが

人生の目的になってしまったのだろう

 

 

いつから僕たちは隣で泣いている人がいても

気づかなくなってしまったのだろう

 

 

いつから僕たちは隣に幸せそうな人がいると

嫉妬するようになってしまったのだろう

 

 

いつから僕たちは愛を忘れてしまったのだろう

 

 

いつから僕たちは生命の喜びを忘れてしまったのだろう

 

収穫に対する 感謝の祈り

 

 

 

足元を見つめてみよう

 

 

傍にいる人の瞳をしっかり見つめてみよう

 

 

泣いてはいないか

 

不安におののいてはないか

 

お腹をすかせてないか

 

話を聞いて欲しがっていないか

 

自分のハートをしっかり見つめてみよう

 

自分の事が好きか

 

ワクワクしているか

 

周りの人を信頼しているか

 

全てに感謝しているか

 

 

今 どんな状況であろうと

 

この瞬間。いのち あることに感謝して喜び

 

この瞬間。いのち 楽しみたい

 

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生きている、

みんなが 幸せでありますように。

笑顔でありますように。

助け合って 生きて行くことができますように。

お互いさまの気持ちで 生きて行くことができますように。

随神の道(かんながらの道)を 歩むことができますように。

誰一人として、
孤独で寂しい瞳をしている人が居ませんように。


皆さんと、皆さんのご家族が、そして、お友達が、
 
お幸せでありますように。
 
輝く笑顔でありますように。

 

 

※画像はネットからお借りしました。