上田城跡公園散策 | 2016年は、真田丸

2016年は、真田丸

使い方がよく分かりませんが、自分のメモとして

上田城は、真田昌幸が、徳川家康の配下にあったとき、徳川家康の支援のもと、上杉景勝の妨害を受けながら、築城したものである。
よって西側(上杉側)の守りは堀等で囲まれ強固であった。武田式城郭の特徴である真田丸のような丸馬出しも西側の小泉曲輪の位置にあったと推測される。
一方、東側(徳川側)には、出入口(虎口)と河川等で囲まれた惣構えの城下町(現在の上田市中心街)があった。


現在の上田城は、二の丸までが、公園として残っている。公園の中には、石碑とか、城とは関係ない施設(以前は動物園もあった)  がたくさんある。

今日は公園内の城とは関係のない施設を中心に、ご案内いたします。

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二の丸虎口
昔は、相応な門があったと考えられる。
前の写真案内図の右側から見た図です。

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二の丸掘の跡
かつては、上田電鉄の電車が走っていた。


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二の丸堀の跡
電車の線路は真田町まで続いていた。
現在は、遊歩道になつている。

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二の丸堀の外側
上田第二中学校は、かって藩校があった場所であり、現在校舎建て替え工事中であった。
門、塀等、それらしく作っているが、かえって興ざめである。


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赤松小三郎もここで学んだ。

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二の丸にある赤松小三郎の碑
「贈従五位赤松小三郎君之碑」 左に「元帥伯爵東郷平八郎書」とある。

大正13年(1924年)、赤松に従五位が追贈されると東郷平八郎は赤松顕彰碑の碑文を揮毫した。その石碑は東郷没後の昭和17年(1942年)になって上田城跡公園に建てられたものである。

赤松小三郎とはどのような人か?
上田藩出身の幕末の志士で、英国の軍隊方式の日本への導入、薩摩藩に対する教育、(日本海軍の礎となった)を京都で行つた。
上田藩の命令(当時は上田藩は幕府側、藩主松平忠固は、老中)で上田に帰ることになり、薩摩藩、人切り半次郎(桐野利秋)により暗殺された。赤松の教えを受けた者は、800人を超え、東郷平八郎元帥もそのうちの1人であった。
赤松の業績には、英国歩兵練法の外、2院制議会政治の建白書(松平春獄に提出)がある。

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西側の二の丸堀跡
右側の建物は野球場の設備

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北西に位置する野球場
かつては、堀だつた。ここからも、金箔瓦が、出土している。
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二の丸     三吉米熊の胸像
(坂本龍馬の盟友、三吉愼藏の長男)
米熊は、東大農学部を卒業、国の視察団として米国へ渡り、養蚕技術を学んだ後、小県蚕業学校(現上田東高校)の初代校長、信州大学繊維学部の設立等、長野県の養蚕教育に多大な貢献をした。
とくに、上田(開国以来、蚕都と言われた)の産業経済に及ぼした影響は計り知れない。

父・愼藏と同じく中央(政府)からの再三の誘いがあったが、これを断り長野県の教育に身を捧げたと案内版には書いてある。


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なお、米熊は、中央政界とのパイプもあり先に述べた東郷平八郎他、三将軍が、日露戦争の後、上田(赤松小三郎の墓参り)を訪問した時、その接待を行っている。
【以下、上田博物館発行の資料より】
明治39年(1906)5月10日、小三郎の門下生であった伊藤祐亨元帥、東郷平八郎大将と上村彦之丞中将三人が、日露戦争に勝利した翌年、善光寺における日露戦争戦没者慰霊祭出席の帰途、上田に立ち寄た。
3将軍は、上田が恩師小三郎の出身地であると知り、翌日墓参する。
三吉米熊も3将軍を歓待し記念品を、3将軍連名の礼状が三吉家に残っている
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上田藩主・松平忠固(幕府の老中)は、開国推進者であり、通商条約締結後、横浜からの絹の輸出を推進し、蚕都・上田の基礎をつくった。これらについては、公園内にある市立博物館にに資料が展示されている。
また、公園内には農民美術の山本鼎記念館があり、上田の幕末は面白い