元興寺の衰亡後、その跡地に庶民が住み着き、東大寺・興福寺・春日大社などの門前町を形成した。それが奈良町である。
元興寺の中で、智光曼荼羅をもつ極楽坊だけは発展し、浄土真宗のメッカとなり、当麻寺の当麻曼荼羅信仰と結びつき、奈良町は、当麻曼荼羅の中将姫の生誕地と言われれるようになった。
奈良町の中には、徳融寺、誕生寺、高林寺といった中将姫信仰の寺院がある。
(中将姫伝説については、引用文を最後に添付した)
今回、先生の引率で徳融寺に行った。
ここには、中将姫の父藤原豊成(中臣の鎌足の孫)の邸宅あとと伝えられ、境内には豊成公と中将姫の供養塔と言える宝筐印塔があり、また6分の1の当麻曼荼羅などがある。
中将姫伝説は、苦界にあえぐ女性たちに、支持されたという。
藤原豊成と中将姫の墓
以下 中将姫の伝承(ウィキペディアより)
中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、能、浄瑠璃、歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。






